「愛の反対は無関心である」マザー・テレサから愛を学ぶ
「愛の反対は憎しみではなく無関心である」という言葉があります。
国語的には、愛の反対語は憎しみになりますが、この言葉を聞くと、確かにその通りだと考えさせられるところがあるのではないでしょうか。
この記事では、貧しい人たちに無関心でいられなかったマザー・テレサの言葉を通して、「愛の反対は無関心である」という言葉の意味を考えてみたいと思います。
きっと、愛とは何かを考える材料になるでしょう。
目次
「愛の反対は無関心」という言葉
「愛の反対は憎しみではなく無関心である」
この言葉は、ユダヤ系米国人作家のエリ・ヴィーゼルの言葉ですが、日本では、マザー・テレサの名言として紹介されていることが多いようです。
なぜ、「愛の反対は無関心である」という言葉がマザー・テレサの言葉とされているかといえば、貧困や病気などで見捨てられた孤独な人に無関心でいられなかった人がマザー・テレサであり、この活動がノーベル平和賞に値したからに他なりません。
ノーベル平和賞を受賞し、日本で紹介されるとともに「愛の反対は無関心である」という言葉はマザー・テレサの言葉として定着してきたのだと思われます。
マザー・テレサがこの言葉をはっきりと言ったかどうかは定かではありませんが、内容的には同じ話をしていたのは確かです。
「愛の反対は憎しみではなく無関心である」
この言葉をエリ・ヴィーゼルは作家として哲学的、思想的に人々に伝え、マザー・テレサは愛の実践者として人々に伝えたと言ってもよいでしょう。
いずれにしても、愛とは何かという考えを深めてくれる言葉であるのは間違いなく、マザー・テレサの活動を知ることで愛に対する理解も深まっていくのではないかと思われます。
無関心とはどういうことなのか
無関心とは、ある事に対し、興味、関心が乏しく、気にもかけないことですが、誰にでも無関心領域はあるものであり、それが悪いわけではありません。
しかし、マザー・テレサの活動における愛の反対語としての無関心は、目の前に困っている人がいるのに、自分には関係ないと思っていることを無関心と言っているのです。
マザー・テレサの活動を知ると、多くの人は、自分のことしか考えていないことに気づかされ、恥ずかしさを感じるところがあるのではないでしょうか。
それは何故かというと、人は他の人のお役に立つ生き方をすることで、社会が成り立っていることを知っているからに他なりません。
だから、ひとたび災害が起これば、人種を問わず、自分のできることで何かお役に立ちたいと思い、お役に立てることに喜びを感じるようになっているのではないでしょうか。
マザー・テレサは、「貧しい人たちは、私たちを求めています。その人たちを愛するためには、その人たちの存在に気づかねばならない。」と言っています。
目の前に貧困に苦しんでいる人がいても、自分には関係がないと思っていることを無関心と言うのですが、この場合の関係がないというのは、自分の利害に関係がないから無関心でいられるのです。
だから、「無関心であるところに愛はない」と言わざるをえないのです。
なぜ、マザー・テレサは無関心でいられなかったのか
なぜ、マザーテレサは貧しい人々に対して無関心でいられなかったのか?
それは、神への信仰心、キリストに対する愛にあるとしか言いようがありません。
マザー・テレサは「愛と祈りのことば」の中でこう述べています。
貧しい人が飢えで死んだ場合、それを神様のせいにしてはなりません。あなたや私がその人が必要としていたものを与えようとしなかったからなのです。
つまり、私たちが神様の愛を伝えるみ手の道具になろうとせず、パンの一切れを与えることなく、寒さから守ってやる衣服を与えようとしなかった結果なのです。キリストが、寒さに凍え、飢えで死にかけた人の姿をとって再びこの世に来給うたこと、淋しさに打ちひしがれた人の姿、温かい家庭を求めてさまよう子どもの姿をとって来給うたことに気づかなかった結果なのです。病人や貧しい人のお世話をする時、私たちはキリストの苦しんでいる体のお世話をしているのです。
私たちはイエスにしているかのように貧しい人々に仕えてはいけません。彼らはイエスその方だから仕えるのです。
マザー・テレサには、貧しい人の姿のなかにキリストの姿が見えたのでしょう。
貧しい人たちは豊かさの裏にある影の部分であり、キリストはその影の部分も愛の思いで背負っておられる存在であるので、マザー・テレサは、そこにキリストの姿を見、大いなる愛を感じていたのかもしれません。
貧しい人たちに対して無関心でいられなかったのは、情けや憐れみではなく、愛ゆえに、神への愛ゆえに、愛そのものでありたいと願っていたからだと思われるのです。
身近にある「愛の反対は無関心」
マザー・テレサの愛は、キリスト教でいうところの神への愛と隣人愛です。
神への愛は信仰がなければ成り立ちません。
隣人愛は縁あって出会った全ての人々を愛する愛ですが、なかには自分を傷つける者もいるでしょうが、そういう人に対しても自分のように愛する必要があります。
そうした人たちを愛する根拠はどこにあるかといえば、同じ神の子であるところに求めるしかないかもしれません。
このような愛は私たちには無理であると思われるかもしれませんが、神様のようにすべての人を愛しきることはできなくても、愛そうと努めることは出来るのではないでしょうか。
マザー・テレサは言っています。
あなたのごく近くに、愛情と優しさに飢えている人々が、きっといます。
どうぞその人たちを見捨てないでください。
彼らに人間としての尊厳を認め、あなたにとって大切な人たちなのだと、真心をこめて認めてやってください。先進国にも、一つの貧しさがあります。
それは、お互い同士、心を許していない貧しさ、精神的貧困、淋しさ、愛の欠如からくる貧しさと言ってよいでしょう。
愛の欠如こそ、今日の世界における最大の病です。
私たちの身近にある無関心は、家庭の中にも、職場の中にもあるはずです。
それは、自分の考えに合わない人、嫌いな人を否定する思いなのかもしれません。
無関心と同じように、否定するところにも愛はなく、愛の欠如からくる貧しさも生まれてくるでしょう。
まずは相手を理解しようと努めるところから始まります。
なぜなら、愛とは理解することでもあるからです。
無関心という力
愛とは、人と人との間に生じるものであり、お互いを結びつけ合う力です。
お互いを結びつけ合う力が愛であるならば、愛の反対は、結びつきを断ち切る力といってもよいでしょう。
そうすると、愛する気持ちの反対は、憎しみ、拒絶、不信、否定などがあげられますが、無関心の力はこれらの力とは全く違う性質をもっています。
それは、憎しみ、拒絶などの力は、自ら働きかけなければ成り立ちませんが、無関心という力は、何の働きかけをせずとも関心が向かなければ成り立つものであるというところです。
もし、愛を妨げる勢力があるとするならば、彼らにとって「無関心の力」ほど効率のよいものはないでしょう。
欲を満たすような情報を流して、ある方向に関心を向けさせれば、簡単に無関心領域をつくることができるからです。
エリ・ヴィーゼルの「愛の対義語は憎しみではなく無関心だ。人々の無関心は常に攻撃者の利益になることを忘れてはいけない」という言葉もこうした無関心の力によるものなのでしょう。
マザー・テレサは、愛は家庭から始まると言っています。
家族みんなが一つになり、おたがいを理解し合っている家庭で育った人は、愛する喜びと、愛される喜びを知っているので、他人にもやさしくできるのです。
愛する喜びと愛される喜びは、おたがいを理解しあうところから始まるということを忘れないでいたいものです。
まとめ
マザー・テレサの活動そのものが、愛の反対は無関心であるということを教えてくれるものでありました。
愛とは何かが分からなくなった時、または、愛とは何かを知りたいならば、「愛ある人」から学ぶのが一番よい方法だと思います。
参考になれば幸いです。
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