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「愛は求めるものではなく与えるものである」のはなぜか

「愛は求めるものではなく、与えるものである」と言われています。

しかし、たとえそうだとしても誰もが愛を求める気持ちは持っているはずです。

この記事では、なぜ愛は与えるものであると言われるかについてまとめてみました。

少しでも愛を与えたいと思えるようになれればと願っています。

なぜ愛は与えるものであるのか

愛は与えるものであると言われているのはなぜでしょう。

優しくすれば、ほとんどの人が優しく接してくれるように、愛を与えれば愛が返ってくるからでしょうか。

しかし、それだけでなく、見返りを求めることなく愛を与える人がいることも確かであり、愛を与えたくなる理由が何かあるはずです。

愛を与えたくなる理由として、

  • すでに与えられている
  • 与えなければ愛は生まれない
  • 愛ある人になる

という3点が考えられます。

すでに与えられている

私たちすべての人間は、生かされて生きています。

何らかの力によって命を与えられているのは確かであり、私たちが存在していること自体がすでに与えられているのです。

この事実に感謝できるかできないかは、その時の心境にもよるでしょうが、ありがたい事実であることは間違いありません。

私たちは心が満たされた時、なぜか人に対して優しく接していることに気づかされます。

生かされていることに感謝できると、なぜかお返しをしたくなるのも、与えられているからであり、その多くは他の人に対して優しくありたいという愛になっているのではないでしょうか。

与えなければ愛は生まれない

生かされて生きている私たちですが、私たちは1人で生きていても幸せにはなれません。

愛を与えることで他の人との結びつきができ、私たちは幸福感を味わうことができるのです。

このように、愛が人と人との間に生まれるものであるなら、愛してもらうのを待っているだけでは、愛は生まれることができなくなってしまいます。

同じ世界に多くの人が住んでいるとしても、愛のない世界は他の人とのつながりのない孤独な世界です。

ここに、愛を与える大切さがあるのですが、愛は与えたら終わりではありません。

与えられた人がさらに他の人に与えていくことで、愛が循環していく流れが社会にでき、私たちは幸福感を味わい続けられるようになるのです。

愛の流れを止めてしまえば、世界は愛のない寂しい世界になってしまうことを皆、心の奥では分かっているのではないでしょうか。

愛ある人になる

愛ある人とはどういう人であるかというと、多くの愛を生み出している人であり、多くの愛をもらっている人が愛ある人ではありません。

多くの愛をもらっている人は愛に恵まれている人ではあるでしょうが、与えられているものを自分だけのものにしているならば、いずれ愛の流れはやってこなくなってしまうでしょう。

それは、川の流れを自分のところでせき止めてしまえば、新たな水は流れてこなくなり水が濁ってしまうようなものです。

もともとは神様からいただいたものを他の人に流していく行為が愛を与えることであり、その行為を続けることによって愛の通路が広くなり、愛溢れる人になっていくのではないでしょうか。

愛溢れる人というのは、私たちが目指す姿でもあり、愛ある人にとっては、愛は与えるものであるのは当然のことになるでしょう。

愛を与える喜び

多くの人は、愛されることに幸せを求めているかもしれません。

もちろん愛されることは喜びですが、ただ愛されることだけを望んでいても幸せにはなれないでしょう。

なぜなら、愛されることの幸せには条件がついていて、愛されれば必ず嬉しくなるわけではないからです。

例えば、恋愛関係では、自分が好意を感じている人からの愛であれば嬉しいでしょうが、嫌いな人、嫌だなと思っている人から愛されたとしたらどうでしょうか?

迷惑だと思うこともあるはずです。

しかし、愛することにおいては、相手の気持ちが分からなくても相手のことを思うだけでとても幸せな気持ちになれます。

それは、愛すること自体に喜びが伴っているからだと思われます。

もちろん、相手に受け入れてもらえればさらに嬉しく、逆に拒否されれば悲しいものです。

相手に拒否され愛が恨みに変わることがあるとしても、それは愛の裏返しの姿であり、愛することに伴う幸せがなくなるわけではありません。

愛すること自体に喜びが伴っているから、愛を与えることで自分の存在に喜びを感じられるようになっているのではないでしょうか。

愛を与えている時は愛と共にある

愛すること自体に喜びが伴っているのは、愛が純粋で美しいものだからだと思います。

純粋で美しいものであるから、すべての人が求めてやまないものでもあり続けられるのでしょう。

愛を与える時、私たちは愛と共にあります。

それは、「愛が欲しい、欲しい」と求めている人がどういう状態であるかを考えれば明らかになるのではないでしょうか。

愛は求めている時には無く、与えている時に私たちと共にあるものなのです。

与えることで愛が生まれ、与えることで愛と共にあることができるのであれば、「愛は与えるもの」であるのは当然のことになるでしょう。

愛を与えるスピリチュアル的な視点

愛が欲しくなるのは愛が欠乏しているからでしょう。

欠乏しているから愛を求めてしまうのでしょうが、欠乏しているからこそ愛を与える必要があるのです。

愛を与え、自分の心のなかに愛の種を蒔く必要があります。

愛を与えることで、心の中に愛が生まれ、その愛を育んでいけばその心の状態に応じた愛が引き寄せられてくるのです。

引き寄せは力づくではやってきません。
愛ある人になることが一番効果的なのです。

まとめ

なぜ愛は与えるものであるのかの説明、解説をしてきました。

愛は与えるものであるとしても人は愛を欲しがるものです。

しかし、愛は与えることで流れをつくらなければ感じられないものであり、自ら与えていくしかないことは心の中では分かっているのではないでしょうか。

それは、多くの人が、人のお役に立てることに喜びを感じているところがあり、その事実が「愛は与えるものである」ことの証明になっているのではないかと思います。

すべての人が愛溢れる人になれますように。

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