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見返りを求めてしまう人の心理・見返りを求めない人になるには

見返りを求めたくなる気持ちは誰にでもあるとしても、見返りを求める気持ちが強過ぎれば、それが自分であっても嫌になることもあるでしょう。

この記事では、見返りを求めてしまう人の心理を明らかにし、見返りを求めない人になるにはどうしたらいいのかをまとめてみました。

参考になればと思っています。

見返りの意味

見返りとは、してもらったことに対してお返しをすることですが、

「見返りを求めてしまう」というのは、相手にしてあげたことに対して、それ相応のお返しがあるはずだと期待している。または、お返しがあって当然だと思っていることを表します。

この見返りは、金銭や物だけでなく、感謝の気持ちやサービスの提供なども含まれますが、期待値との差が大きければ、見返りはなかったと考えてしまうこともあるでしょう。

社会生活は、互いに支え合って成り立っているのだから、ギブアンドテイクという言葉があるように、してもらったことに対しては、きちんとお返しをするのが礼儀であるという考えもあります。

しかし、見返りを求めるのが当たり前だと思っていたり、見返りをあてにした行為をするところから問題が出てきているのも確かです。

見返りを求める人の心理

見返りを求めなければならないのは、見返りを求めなければならない何らかの理由があるはずです。

何かを得るために与えるわけなので、見返りが得られなかったときに何を感じるかというところに、見返りを求めなければならない理由が表れてきます。

見返りを求めてない親切をしたとしても、一言の感謝もなければ淋しさを感じるものですが、それは、お互いに支え合って生きているという繋がりを無視された淋しさかもしれません。

もし、淋しさだけでなく腹立たしさを感じるようであれば、見返りを求めているつもりはなくても、なんらかの見返りを求めていたと考えてよいでしょう。

見返りを求めていない人との差は、お互いの繋がりを無視された淋しさが腹立たしさになっているところであり、心理的には、繋がりを無視されたところに恐れを持っているといえるのです。

それは、自分の存在意義が感じられなくなる恐れといってよいでしょう。

自分の存在意義を感じていたい

人間関係は、自分ひとりの一方的なものではなく、自分と相手との関係で成り立っているものなので、相手からの見返りがなければ、関係が閉ざされたものになり、自分の価値が見い出せなくなってしまうところがあります。

そこにあるのは、自分を認めてほしいという承認欲求であり、これが満たされないと、自分の存在価値、存在意義が感じられなくなってしまうのです。

社会の中で自分の存在する必要性がなくなるほどの恐れはないのかもしれません。

それは、誰からも愛されていないと感じることに繋がるからです。

生きていく価値が見い出せなくても、誰もが自分には存在価値があると思いたいものなので、自分の必要性、価値を感じたくて見返りを求めてしまうのでしょう。

見返りを求めない人になるには

誰もが自分の存在を認めて欲しいという承認欲求を持っていて、それが自然な欲求であるとしても、求める気持ちが強すぎれば求めても得られない苦しみはさらに強まってしまいます。

それは、人の評価は自分の自由にはならないというだけでなく、人の評価を気にした行動は、自分が本当にしたい行動ではなく、人の顔色を伺う行動になってしまうからです。

そんな行動を繰り返していれば、自分の存在意義が分からなくなるのも仕方ないところがあります。

認めて欲しいという思いを満たすには、他の人からの評価も大切ですが、他の人の評価をどう受け止めるかは自分次第なので、結局のところは自分で自分を認めてあげるしかありません。

そのために、

  • 自分の気持ちを感じてあげる
  • 見返りを求めている真実の姿を知る
  • すでに多くのものを与えられていることを知る  
  • 自分はどうなりたいのかはっきりさせる

という4点が大切になります。

自分の気持ちを感じてあげる

見返りを求めていない人は、見返りがなくても淋しいと感じるだけですが、見返りを求めている人は淋しさを感じることなく自分の正当性を主張します。

その正当性は、相手の不義理を責めたり、自分の至らなさを責めたりする形で表れてきますが、本当のところは、自分の淋しさを感じるのが怖いから、その怖さに気づかないようにするための正当性を主張しているところがあるのです。

淋しさを感じることと自分の存在意義がなくなることが一致してしまっているからですが、これは真実ではありません。

自分の勝手な思い込みでしかないのですが、淋しさは孤独という恐れを生み出すので、そう思ってしまうのも仕方ないところはあるでしょう。

自分が恐れていることに気づき、認め、自分の気持ちを感じてあげれば、恐れからとってしまう行動をする必要もなくなってくるのですが、この時に恐れと向き合うという怖さが出てくるのです。

この恐れと向き合えるようになるために、見返りを求めている真実の姿を知る必要があります。

見返りを求めている真実の姿を知る

見返りを求めてしまうと、相手の反応が気になって仕方なくなります。

これは何を表しているかといえば、相手の気持ちをコントロールしたいと思っていることになり、それはさらに、自分の機嫌は相手次第という人任せの人生になってしまうのです。

相手に何か求めているなら、相手に自分の気持ちを伝えるのが一番ストレスのかからない方法であり、これが自分のしたい本当のことではないでしょうか。

それを妨げているのが否定されたらどうしようという怖れなのですが、その怖れは、自分はすでに多くのものを与えられているという事実に気づくことで薄らいでいきます。

すでに多くのものを与えられていることを知る 

見返りを求めてしまう人は、今の自分がすでに多くのものを与えられていることに気づいてないところがあります。

それは、求める気持ちが強すぎるから、不足ばかりに目がいってしまい得られてないと思い込んでいるからです。

見返りが得られていないというならば、逆に自分がどれだけ他の人に与えているか、見返りを求めずに与えているかを考えてみるのがよいでしょう。

振り返ってみれば、自分がいかに与えてこなかったかということに気づくとともに、自分が求めていたほどには得られていないとしても、相手の優しい気遣いなどに気づくところが出てくるはずです。

それが感謝につながり、すでに多くのものを与えられているという事実に気づけば、求める気持ちや恐れは薄らいでくるようになります。

そうなると、求めることなく相手に与えることもできるようになり、それとともに必要であれば、自分がして欲しいことを「〜して欲しい」と無理なくお願いできるようになってくるのです。

お願いすることは見返りを求めることとは違い、お互いが助け合う行為でもあるので、信頼関係も深まっていくようになるでしょう。

自分はどうなりたいのかはっきりさせる

聖書のなかに、「求めよさらば与えられん」という言葉があるように、確かに求めなければ得られないところはあります。

しかし別なところでは、「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」という言葉もあります。

ここから考えられることは、「求めよさらば与えられん」という言葉の求めるというのは、「求めるための行動をせよ」ということであり、求めるための行動とは、「自分がしてもらって嬉しいと思う行動を相手にしてあげなさい」ということになると思われるのです。

求めるだけの行動は、相手の反応に左右される人生を歩むことになり、主体的な人生を歩めなくなってしまいます。

見返りを求めて得られない苦しみを感じる時というのは、自分はどういう人生を歩んでいきたいのかという、選択をする時であるのかもしれません。

人に左右される人生を歩んでいきたいのか、自主的な人生を歩んでいきたいのか、はっきりさせる必要があるのでしょう。

まとめ

見返りを求めてしまう人の心理と見返りを求めない人になるための方法をまとめてみました。

見返りは求めないと損をするという考えもあるでしょうが、見返りを求めなくなるとどうなるかといえば、間違いなく優しい人になれます。

なぜなら、優しい人は、求めなくても見返りを受け取っていると感じられるから優しい人でいられるからです。

関連記事として、「愛は求めるものではなく与えるものである」のはなぜか、という記事も参考になると思いますので、興味があれば読んでみてください。