幸せになれない運命を断ち切るために 不幸であることをやめよう!

幸せになれない運命にあると感じてしまうのは、まるで暗闇のなかで何の灯りも見えないような心細い状況にあるのではないかと思います。

そんな時に、少しでも未来に希望が持てるようになればと願いながらこの記事は書きました。

何らかのヒントが得られますように。

幸せになれない運命とは

幸せになれない運命というのは、厳しい人生、難しい問題を抱えている人生だといえます。

どうしたらよいか分からない問題というのは、本人にとっては難しい問題です。

また、別な見方をすれば、自分の行動が結果的に悪い方向へ向かうような選択をしてしまっている人の運命と言えるのかもしれません。

自分の行動の元にある考え方に何らかの勘違いがあり、人生の舵取りが上手く出来なくなっているといってもよいでしょう。

いずれにしても、どうしたらよいか分からなくなっている状態であるのは間違いなく、どこに問題があるのか分からなければ、幸せになれるとは思えないでしょう。

一生幸せになれない気がする

一生幸せになれない気がする人というのは、普段から努力されている人のはずです。

これだけ頑張ってきたのに辛い思いばかりであり、もうこれ以上何をしたらよいか分からなくなり、自分は幸せになれない運命なのかもしれないと考えてしまうのかもしれません。

幸せになろうとしてなれる人となれない人には何らかの差があるはずですが、幸せな人の行動を真似し上手くいく人もいれば、逆に苦しくなってくる人もいます。

行動だけではない何かがあるはずです。

行動の奥には行動を起こすだけの動機があるはずですが、人は自分の行動の動機までは、あまり意識していないところがあります。

行動だけでは分からない何かとはその行動を起こす動機であり、この動機のところを修正すれば、行動の結果まで変わってくるのです。

行動の動機に気づくためには自分の人生を否定していてはいけません。
否定していては動機も正当化され見過されてしまうからです。

まずは、自分の運命を受け入れるところから始まります。

幸せになれない運命を受け入れる

運命を受け入れると人生の流れは確実によくなります。

それは、自分の人生を否定して流れを止めている障害物がなくなるからです。

人生が順調にいっていれば、運命も無理なく受け入れられるでしょうが、辛く厳しい人生であれば簡単に受け入れるのは難しくなります。

運命を受け入れようとし、今の現状の中から、幸せを見出そうと努めても無理に幸せだと思い込もうとしてしまう自分がいて、苦しくなるばかりの場合もあります。

幸せになれない運命を受け入れるとは、決して、今の辛い現状を幸せだと思えとか、喜べと言っているわけではありません。

また、このような運命が与えられているのは、何らかの理由があるはずだと考えるのは前向きでよいのですが、罪悪感を持っている人にとっては難しいところもあります。

辛い人生が罰として与えられていると考えてしまうと、罰を受けなければならない自分は悪い人間であるので、ありのままの自分を愛することなど出来ません。

これは、罰を受けるだけの思い当たる節があってもなくても同じ結果になるでしょう。

辛い人生は何か悪いことをした罰としてあるわけではなく、より良い生き方に気づいてもらうためにあるのです。

辛く苦しいがゆえに、罰のように感じてしまうのかもしれませんが、これは生みの苦しみでもあり、ありのままの自分を今は愛せないとしても、否定する必要などないと分かれば運命を受け入れられるようになってきます。

この、「愛せなくても否定する必要はない」というところを理解する必要があるのです。

幸せになれない人の特徴

幸せになれない人の特徴は、望んでそうしているわけではないとしても、結果的に悪い方向へ向かうような行動をしてしまっているといえます。

それは、自分の運命の受け入れ方に問題があるのかもしれません。

運命を受け入れるとは、ありのままの自分をよしとして愛することですが、これは運命を受け入れられた状態であって、受け入れられない現状から、いきなりこのような心境になるには無理があります。

しかし、私たちは受け入れようとするあまり、無理して愛そうとしてしまいます。

ここにあるのは、「ねばならない」という恐れであり、恐れが行動の原理になってしまうのです。

幸せになるのは、恐れから逃れたいためなのか。

幸せになるのは、喜びからなのか。

分かりやすい例として、

笑顔を作るのは、嬉しいからなのか、人の機嫌をとるためなのか。

どうでしょうか?

行動のもとに恐れがあるなら、その行動をすればするほどに恐れを強めてしまいます。

笑顔の例で言えば、人の機嫌をとるために笑顔をつくれば、笑顔を作れば作るほどに、人の顔色が気になって仕方なくなってしまうのです。

逆に、行動の動機が希望であるなら、笑顔を作るほどに楽しくなってくるのも理解できるのではないでしょうか。

人は誰でも、恐れを抱いていますが、幸せな人と幸せでない人との差は、行動の動機にどれだけ喜びがあるのか、恐れがあるのかの違いであるといえます。

ここが、同じ行動に見えても結果に差が出てくる原因でもあるのです。

ありのままの自分を無理して愛そうとするところには恐れが忍び込んできます。

しかし、今は愛せない、認めはできないが、否定する必要はないということであれば、比較的簡単に思えるようになり、ここには恐れが入る余地はないのです。

無理して愛そうとするところが逆に自分を否定してしまう結果になってしまうのです。

幸せになってはいけない?

自分は不幸だと思っていなくても、幸せになれない運命だと思っている人もいます。

それが、幸せになってはいけないと思っている人です。

なぜ幸せになってはいけないのか。

それは、

  • 人を傷つけた自分は許されないと思っている。
  • 自分だけが幸せになってはいけない。

というものが代表的なものでしょう。

人を傷つけた自分は幸せになってはいけない

人を傷つけた記憶が鮮明にあれば罪悪感が消えない限り、幸せになってはいけないと思ってしまうか、幸せになるにしても重い十字架を背負う人生を歩まねばならないと考えてしまうでしょう。

罪の意識は過ちを正す働きがありますが、その一方で罪の意識から行う行為は罪悪感をより強めてしまう原因にもなってしまいます。

行動はその動機を強化してしまうという法則がある以上、罪悪感が罪悪感を強めてしまうところがあるのです。

傷つけた人に対して申し訳ない、悪かったと思いながらも、また同じように罪悪感を感じる出来事を引き寄せてしまうほど辛いものはありません。

罪の意識があるのは、マイナスの人生を歩んできてしまったという自覚があるからです。

マイナスの人生であるならば、プラスの人生を歩んでトータルの人生をプラスにしていくしかありません。

罪悪感は正しい人生を歩む切っ掛けにし、謙虚に生きていく力とすることです。

積み重ねたプラスの人生は巡り巡って傷を与えた人達の徳にもなっていきます。

続けていくうちに、プラスの人生を歩む喜びに目覚めるようになってくるはずです。

自分だけ幸せになってはいけない

自分だけ幸せになってはいけない、楽しんではいけないと思ってしまうのは、楽しんだら許されないと思っているからでしょう。

楽しむことに罪悪感を感じるようになり、幸せな思いを抑えているうちに自分だけ幸せになってはいけないと感じるようになってしまうのです。

それは、幸せになれないと思い込んでいる人達に顔向けできなくなると思っているところがあるのではないでしょうか。

身近なところでは、両親が楽しめない人生を送ってきた姿を見てきたならば、本当は楽しみたいけれども楽しんでしまうと両親の人生を否定しているように感じてしまうところがあるのです。

また、幸せになれない人にとっては、幸せでない人の存在は自分だけではないという安心感が得られるという面もあります。

同じような人生を歩むことによって、愛情表現しているところはあるでしょう。

しかし、自分のなかに楽しみたいという気持ちがあることは誤魔化せません。

また、幸せになれないと思い込んでいる相手に対して愛情表現をしているつもりであっても、相手も本当は幸せになりたいと願っていることを見過ごしてはいけないのではないでしょうか。

あなたに幸せになりたいという思いがあり、何かおかしいと感じているならば、相手も何かおかしいと感じているはずです。

何かおかしいと感じたところから、変化は始まっていくでしょう。

不幸であることをやめる

同じ行動であっても、行動の動機によって幸不幸に分かれてしまう。

幸せになれない運命だと思っている人は気付かぬうちに恐れが行動の原理になっているので、「恐れを動機とした行動をやめる」ことに意識を向ける必要があります。

恐れを動機とした行動をやめることが、不幸な自分をやめる結果となり、今ここにある幸せにも気づけるようになってくるのです。

具体的に恐れを動機とした行動にはどのようなものがあるかというと

  • 物事に嫌々取り組む。
  • 焦って行動している時。
  • 無理してポジティブになろうとしている時。

などであり、これらは無理して幸せになろうとする行為であり、真面目な人ほど陥りやすいところです。

無理して受け入れるのではなく、「現実を否定しない」という受け入れ方もあります。

それは、出来事のよい面を積極的にとらえて幸せになるものとは違いますが、否定しないという立場であれば、不幸になることもないのです。

真面目過ぎて幸せになれない人へ

真面目さはとても素晴らしい精神的態度です。

しかし、何事にも長所と短所があるように、真面目過ぎると完璧主義すぎて融通が利かなくなったり、頑固になりがちです。

特に真面目な人は努力しすぎて「ねばならない」となって頑張ってしまうところがあります。

希望に燃え「ねばならない」と思うのはよいけれども、不足では許されないという「ねばならない」は現実否定になりかねません。

これは物事に苦しみながら取り組む姿であり、恐れからきている行動なのです。

心のなかでは、そんな自分が嫌なのは分かっているので、無理やりポジティブに考えようとしたり、焦っている自分を懸命になだめてみたりもしてしまいます。

このように考えてしまう自分を無理やり変えようとするのが、自分を否定するという行為であり、恐れでもあるのです。

受け入れるとは無理やりよしとするのではなく、受け入れられない自分を否定しないこと。

焦ってしまう自分がいるのは良いとは思えないが、現実にいるのだから否定するわけにはいかない。

こんな自分がいることだけは認めようというのが、現実を否定しない受け入れ方になります。

そして、このように認めてしまうと焦りもなくなり、穏やかに対応できるようになってくるのです。

行動の原理から恐れがなくなった姿であり、穏やかな心が何を成したらよいかを気づきとして教えてくれるようになってきます。

幸せになれない運命などない

幸せになれない運命などありません。
それは、私たちの存在自体に付随しているものが幸せであるからです。

幸せとは、なるものではなく、在るもの、存在するものであり、私たちは幸せという空間に生きていて、運命さえも幸せという空間のなかにある現象だといってよいでしょう。

苦しみとは、人が成長していくときの変化に伴う痛みといってもよいかもしれません。

思うように変化できてもできなくても、今ここに存在していること自体が幸せであるといえるのは、存在が許されているというところにも現われています。

私たちは何者かによって存在することを許され生かされているという事実があるのです。

それを許している存在を、神と言ったり、サムシング・グレート(偉大なる何者か)という言い方をされる人もいますが、存在を良しとされている幸せは何ものにも代えがたいものではないでしょうか。

辛い人生ばかりだと思っていても、生きている限り人生にはなにが起こるか分かりません。

災害は忘れたころにやってくると言われていますが、その辛い経験を通して幸せとは何かをつかんだ人も数多くいるように、人生には何が起こるかは分からない不思議なところがあります。

私たちの存在自体が幸せであるから、不幸であることをやめてしまえば自動的に幸せに気づけたりするのです。

そう考えると、「ねばならない」と無理をせず、穏やかに過ごせるのではないでしょうか。

まとめ

幸せになれない運命は受け入れることによって否定的な人生から積極的なものに変わってきます。

不幸であることをやめるのも積極的な生き方になるのです。

私たちは真面目に正しく生きようとするあまり、いつしか不幸な自分を演じてしまいます。

焦っている時や不平不満があり嫌々行動する時など心が波立っているときは要注意です。

自分の人生、否定する必要などないと思えれば幸いです。

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