運命は決まっているとしても何も困らない考え方とは

運命は決まっているのかいないのか?

思うようにならないことや災難が続いたりすると、運命は決まっていて変えられないのではと思えてきます。

昔から宗教的、哲学的に議論されてきているようですが、今だ結論は出せないでいるようです。

この記事では、運命が決まっているとするならば、それはどういうことなのか私なりに考えてみました。

運命のことですから、想像の域は超えられませんが、考える材料にはなるのではないかと思っています。

運命はどこまで決まっている

人生には時折、私たちの力では避けられない出来事、災害などに見舞われることがあり、この事実から、私たちは運命の流れの中にあるのは間違いありません。

しかし、原因がなければ結果もないというのも確かなものであり、努力が報われることを完全に否定することはできません。

気になるのは、運命は変えられないのか、また変えられるとしたら変えられる余地はどれくらいあるのかというところでしょう。

経営の神様と言われた松下幸之助さんは、自分の人生の90%は運命だと感じていたようです。

しかし、運命が90%だから努力しなくてもいいかといえばそうではなく、成功するには必ず努力が必要であると言われていたようです。

努力の余地が10%というのは多いか少ないかは分かりませんが、この割合は人によって変わってくると私は思っています。

人生のシナリオは決まっている?

運命があるということは、人生にはそれなりのシナリオがあるということになります。

このシナリオは誰が決めてくるのかというと、科学的には証明できませんが、スピリチュアル的に守護霊という存在から教えてもらったり、臨死体験・退行催眠などを経験された方によると、生まれる前に指導役の魂の助言を受けて、人生のシナリオを書いてきているという話もあります。

しかし、シナリオを作ってきているからシナリオ通りに生きる運命になるかといえばどうなのでしょう。

参考記事「生まれ変わりは本当にあるのかないのか?真実はどこにある」

人生のシナリオは人それぞれ

生まれてくる前に、人生のシナリオを作ってきているとしても、シナリオをどの程度細かく作ってきているかはその人の性格によって大きな開きがあるはずです。

例えば、旅行の計画を立てるとしても、細かい人ならば、5分刻みのスケジュールを立て、立ち寄る店、食べるものまで、こと細かく計画しシナリオ通りに行動しなければ気がすまない人もいるでしょう。

別な人は、行きと帰りの日程を決めておいて、あとは気ままな旅をするというシナリオを立てる人もいるはずです。

細かく決めておくことで安心したい人はその分自由度が減り、トラブルを承知していれば自由度は増すというように、変えられる運命の幅は変わってくると考えたほうが納得しやすいのではないでしょうか。

シナリオはひとつだけではない

この世界はひとりで生きているわけではないので、各人のシナリオがぶつかり合うことは避けられません。

柔道の選手としてオリンピックで金メダルを取るというシナリオを作っても、ライバルがいる場合にはひとつのメダルを争うことになります。

事前に相手と打合せして、「では、今回はわたしは銀メダルにします」

とはならないでしょう。

結果は神様が決めるとしても、間違いなく分かっているのは、何の練習もせずに、運やシナリオだけでは金メダルは取れないということです。

つまり、運命というシナリオは全て決まっているわけではなく、努力という原因と結果の法則が入る余地はあると考えてよいのではないでしょうか。

神様から見れば運命は決まっている

運命論というものがあります。

世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように決められていて、人間の努力では変更できないとする考え方です。

誰が決めているかといえば、全知全能の力を持った存在、いわゆる神様ということになるでしょう。

私たちが自分の意思で考えていること全てがそのように思わされているという可能性も、全知全能の神様が決めているならばあると認めざるをえません。

しかし、私たちの立場からいえば、それが定められているものかどうかを知る術はありません。

また、自分の自由意志での選択の結果に一喜一憂しながら、喜びや悲しみを味わいながらも幸福を求めているのは確かです。

こうした事実からいえば、神様の立場からみれば、運命は変えられなくても、私たちの立場からいえば、運命というものは確かにあるが、変えていけるところもあるといってよいのではないでしょうか。

運命が決まっているとする利点もある

運命は決まっていて変えられないならば、努力する意味が分からなくなる思うのは私だけではないでしょう。

しかし、運命は決まっているとする利点もあります。

運命を受け入れるしかない

運命が決まっていると信じるならば、自分の人生にやってくる出来事すべてを受け入れざるを得なくなります。

あるのかないのか分からないならば、受け入れがたいところもありますが、運命は決まっているとして受け入れるならば、不平不満など言っても仕方なく、出来事の中から良い面を探すしかありません。

ここから人生に積極的に取り組めるようになるところがあります。

謙虚になれる

災害は忘れた頃にやってくると言われていますが、個人だけでなく社会全体でも、時折災害などが起きて私たちの無力さを教えられることがあります。

忘れた頃にやってくるというのは、個人でも、社会全体であってもそうですが、人生が順調に流れていて、過信している時ではないか思われます。

こうしたところから、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という諺もあるのではないでしょうか。

なすすべもない時は祈るしかありません。

神様を信じていようがいまいが、何かに対して祈ることはあるのではないでしょうか。

運命の前では非力な自分を受け入れるしかなく、謙虚さを学ぶ機会にもなります。

運命のシナリオは決まっているが、シナリオの数は無限にある

運命のシナリオは決まっているとしても、シナリオの数は沢山あるかもしれません。

神様は、あらゆる事態を想定して、無限のパターンを用意されている可能性もあります。

そうであってこそ、全知全能の神様といえると考えてもよいのではないでしょうか。

また、全知全能の神様がひとつのシナリオを決めて、私たちがそのまま演じるのを見ているだけとは思えません。

きっと、要所要所で私たちがどういう選択をして、どのシナリオを選ぶのかを見ていると考えることも出来ます。

運命は決まっているシナリオが無限に用意されていて、途中において、Aのシナリオ、Bのシナリオへと移っていけると考えるのも楽しいのではないでしょうか。

このように、シナリオが無限にあるならば、運命は決まっているとしても、わたしたちの選択肢は無限にあり、運命は変えられる変えられないという問題ではなく、運命は選べるというものになります。

運命は選べる

自分なりにシナリオを選ぶことができれば、運命には無限のバリエーションの可能性が出てきます。

占いというものがあり、ある程度未来を予想できるというのは、あなたという個性・性格であれば、今の社会情勢や環境のなかではこのようなシナリオを歩むだろうという形でほぼ決まっているのかもしれません。

これが因果の法則・原因と結果の法則と言われるものであり、原因を変えなければ運命は変えられない、しかし、原因を変えていけば新しいシナリオが現れ、運命も変えられると考えてもよいのではないでしょうか。

運命は決まっていようがいまいが構わない

ひとつの事実として、今幸せな人は運命が決まっていようがいまいが、それはどちらでも構わない問題になります。

それは、幸せという事実がある以上、どのようにでも理由付けできるからです。

過去に不幸な出来事があったとしても、今が幸せならば、その不幸な出来事も幸せに至る道であったと思えるようになり、運命のおかげで今があると考えることもできます。

運命の流れは私たちを幸せに導くものなのか、不幸にするものなのか、進む方向を自分で決めるところから運命は始まるのかもしれません。

まとめ

運命は決まっているのか決まっていないのか。

思いつくところをまとめてみました。

生かされて生きている私たちには、どちらが真実かどうかは分かりませんが、いずれにしても、結論としては、運命のおかげとして感謝して生きるのか、運命のせいにして不平不満の人生を生きるかの選択になるのではないかと思われます。

参考になれば幸いです。

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