許せない人を許して得られるスピリチュアル的な成長とはなにか
許せない思いを持ち続けるのは辛いものです。
許せない思いを長く持ち続けていれば、それが恨みにまで高まってしまい、感情に翻弄されてしまう可能性もあります。
知ることは力です。
道徳的考え方だけでなく、許せない人を許すスピリチュアル的な意味を知ることが許す力を強くしてくれるはずです。
目次
許せない人を許すスピリチュアル的な意味とは
人を許すというのは、善悪という良いか悪いかという問題だけでは許せるものではありません。
例えば、ひどい仕打ちを受け、裁判をして判決が出て、罪を償えば許せるかといえばそうとは限らず、感情的なものが大きく関わっています。
傷つけられて許せないから何らかの仕返しをしたくなるというのも、感情的に許せないところがあるからでしょう。
感情的な問題であるがゆえに、許すという行為は道徳的な考えだけでなく、精神的な問題としてスピリチュアル的な意味を知ることが重要になってくるのです。
スピリチュアル的には許しは愛を学ぶためにある
人を許さないというのは、相手を裁いている状態であるといえます。
裁くのは、自分の中にある善悪という判断基準で判定しているわけです。
自分が善であるとして、悪である相手を許すには、善悪の判断をつけただけで出来るものではなく、善悪の判断を超えたものが必要になります。
それが愛というものなのでしょう。
愛がなければ許すことはできないのです。
仮に、立場上許してやるというものであるとするならば、それは許しではなく、姿を変えた支配でしかありません。
愛があるから許すことができる。
- 悪さをする子供を許す
- 大切な人だから過ちを許す
- 何か事情があるに違いないと考える
というように、愛がなければ出来ないものです。
許せないのは、その人に対しての愛が足りていないといえますが、それではいけないと言っているわけではなく、許せない状況にある時、私たちは愛を学ぶ機会にあるというのは確かでしょう。
許せない人を許して得られる魂の成長とは
私たちは、上手くいかないことや失敗を乗り越えながら成長していきます。
自分に起こる出来事を人のせいにすることなく、自分の問題として取り組むことで、主体的な人生を歩んでいくことができるのです。
許せない思いは、
- 許して解消する。
- 考えないようにして忘れるのを待つ
- 仕返しして解消する。
という大きく分けて3つの対処方法があります。
許して解消するというのは「愛」ですが、すぐに全くしこりもなく許せる訳でもないので、忘れるまで待つというものになるかもしれません。
許そうと思い、許せるまで裁かずに待ってあげられるというのも「愛」です。
しかし、仕返ししたいというのは、裁く心であり、愛とはほど遠いものになってしまいます。
これはどういうことかというと、ひとつの選択を任せられていると考えられるのではないでしょうか。
相手を裁いてスッキリするという幸せをとるか、相手を許して愛ある人生にするのかという選択です。
相手を裁いてスッキリして喜ぶというのは支配欲であり、魂的には支配欲を成長させることになります。
一方、相手を許し愛する対象が広がれば、魂は愛情深いものとして成長していくはずです。
人を許せない人の特徴
人を許せない人の特徴として、正義感が強いというところがあります。
正義感が強いのは、とても良い特徴ですが、自分の価値観にこだわりすぎると人を許すのが難しくなります。
ここにあるのは、相手を思いやる愛の不足であり、別な言葉では、相手を理解しようとしていないところがあるのです。
「愛の別名は理解しようとすること」でもあります。
理解しようと思えない理由が自分の中にある価値観にこだわっているところであり、それだけ強く自分に対して「ねばならない」という戒律を厳しく守っているのでしょう。
自分を守る正義であるので、崩すわけにはいけないところがあり、これが人を許せなくなる原因にもなります。
人を許すのではなく自分を許す
正義感が強く、自分の価値観にこだわっていれば、その価値観は他の人に対しても同じように適応されるのは明らかです。
そうすると、許せない相手というのは、実は、自分の価値観を守ろうとしない自分自身の姿であり、そんな自分を責めていることが分かるのではないでしょうか。
これが、相手の姿は自分の心のあり方が映し出されたものであるとスピリチュアル的にいわれているものなのです。
自分自身に対して無理強いしているから他の人の行為が許せなくなってくるのではないでしょうか。
許せない人は因果応報として現れている
因果応報とは、原因に応じた報いが結果として現れることであり、同じ意味として、「自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならない」という言葉もあります。
どちらかというと、悪い行いに対してバチが当たるというように悪い意味で捉えられることが多いようですが、良くも悪くも蒔いた種は刈り取る必要があるということです。
因果応報という法則からすると、許せない人は過去の自分の行いが引き寄せたものになります。
スピリチュアルな考えでは、過去とは今世だけでなく、生まれる前の過去世も含まれているので、全く思い当たる節がなくても、因果応報を信じるならば、過去に何かあったのかもしれないと考えることも可能です。
また、自分では人を傷つけたつもりはなくても、相手はひどく傷ついているケースもあり、それに気づかせるための出来事である場合もあるでしょう。
新たにつくる因果応報
因果応報という原因と結果の法則は、原因に応じた結果を受け取り、受け取った結果にどう対処するかで新たな原因をつくるというように永遠に繰り返していきます。
許せない人にどう対処するかで、未来に引き寄せられるものが変わってくるわけです。
また、許せない相手自身も因果応報によってそれ相応の結果を受け取ることになるので、仕返しをしようなどと思わないほうがよいでしょう。
それだけでなく、相手の不幸を願うことも、自分の蒔く種となるので避けたいものです。
かといって、相手の幸せを願うのは簡単に出来るものではありません。
しかし、因果応報からみれば、世の中の出来事は何らかの学びの材料として必要があって起こっていると考えることも可能です。
そうであるならば、「この出来事を通してお互い良き学びを得て成長していけますように」と願うことは比較的簡単に出来るのではないでしょうか。
過ちを修正して人は成長していく
スピリチュアル的には、すべては成長していくための舞台であると考えられています。
過ちを通して学ぶからこそ、正しく生きていく大切さが分かるようになるのです。
傷つけられるのはとても辛いことですが、人を傷つけてしまった後悔はさらに辛いところがあります。
傷つけられた気持ちは自分だけの問題として処理できますが、人を傷つけてしまった後悔は、相手が別人格であるがゆえに、自分の問題だけで済まないところがあるからです。
自覚が有る無しに関わらず、私たちは誰もが傷つけ傷つけ合っているところがあります。
それでも生きていられるのは、誰もが時間の経過と共に許しあっているからでしょう。
人を傷つけたことなどないと言われる人もいるかもしれませんが、私たちは許す以上に許されて生きている存在なのではないでしょうか。
まとめ
「許せない人を許して得られるスピリチュアル的な成長とはなにか」ということで、
許しは愛の思いを成長させ、許せない思いは、裁く心を成長させてしまうという話をしてきました。
私たちは誰でも許せるわけではありません。
全てを許しているのは神様だけでしょう。
そうすると、私たちは、許せるほどに神様に近づいているということも可能になります。
傷つけられるのは辛いですが、そんな自分も許されてきて今があることを忘れなければ、それも許す力になるのではないでしょうか。
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