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「許すことは最大の強さ」ガンジーの名言から学ぶ許すということ 

マハトマ・ガンジー
「マハトマ」とは「偉大な魂」という意味。

ガンジーの葬儀でアインシュタイン博士は「将来の人たちはとても信じないだろう。このような人間が地球上に実在したことを」と語られたと言われています。

ガンジーの言うところの「許すということは強さの証だ」とはどういうことなのか、私なりに考えてみました。

許すことは最大の強さ

弱い者ほど相手を許すことができない。
許すということは強さの証なのだ。
  マハトマ・ガンジー


「インド独立の父」と呼ばれているガンジーはイギリスの植民地であったインドを非暴力・不服従の運動でインドを独立へと導いた人物です。

ガンジーの生涯は、差別との戦いでもありました。

差別とは比べること、どちらが優れているかという優劣をつけることであり、優劣を争っている限り、どちらにも平安はありません。

武力で優位に立とうとするところに平和はないということをガンジーはよく分かっていて、こんな言葉を残しています。

「私の信念によると、もし、臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、私はむしろ暴力をすすめるだろう。

インドが意気地なしで、辱めに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、私はインドが武器をとってでも自分の名誉を守ることを望んでいる。

しかし、私は非暴力は暴力よりもすぐれており、許しは罰よりも、さらに雄々しい勇気と力がいることを知っている。しかし、許しは全てに勝るとはいえ、罰を差し控え、許しを与えることは、罰する力がある人だけに許されたことではないだろうか。」

武力の力で戦っている人にとっては、無抵抗ほど怖いものはありません。

それは、自らが武力のない恐怖を常に抱えているので、自分の中にある恐れと向き合わざるを得なくなるからです。

また、立場が弱いから許すというのは、立場が変われば我慢してきた分、仕返ししたくなってくるかもしれません。

立場に関係なく、名誉を守るためには戦うという気概を持っていることが強さの証であり、そうであってこそ許しになるのでしょう。

許すということ

ガンジーのような大きな許しは、個人の許しを超えたところがありますが、一般的には、許すというのは、過去を手放すことになります。

過去の傷を手放し、これ以上、苦しむのをやめようと決めることです。

この許しは、私たちがスピリチュアルな存在であるという人生観をもつことでなされていくところがあります。

スピリチュアルな人生観とは、私たちの本来の姿は魂であり、肉体は魂の仮の宿であるというものです。

自動車の運転手が本当の自分であり、自動車という肉体は今世の乗り物であると考えると分かりやすいかもしれません。

肉体に宿っている魂が本当の私たちであるから、肉体の生存における優劣を超えて、精神的に成長していくことに価値を見出す大切さがわかるようになるのです。

聖書の話に、天の父なる神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」とあり、神は全ての人を愛しているといわれています。

しかし、愛しているからといって、何をしてもよいわけではなく、因果応報の報いは受けなければならない。

これは、裁きとしてみることも可能ですが、過ちを修正して進化していくという仕組みを創られていると捉えれば、決して裁きをよしとしているわけではなく、神が愛であるなら、なぜ裁きがあるのかという矛盾はなくなります。

スピリチュアルな存在として人間を見るならば、許しを通して成長していく仕組み自体が大いなる愛であることが分かるのではないでしょうか。

神の存在を信じてなくても、宇宙を貫く法則として因果応報という原因と結果の法則からみても、私たちは、失敗を経験しながら成長しているところはあるでしょう。

特に仕事などでは、失敗なくして成長はあり得ないところがあります。

失敗は許さないとして裁く人もいるかもしれませんが、自分も失敗を許されながら成長してきたことを忘れてしまうのかもしれません。

このように、全ての人は成長していく流れのなかで生きていると考えることが許す力の助けになってくれます。

過ちという過去は消せなくても、反省しプラスの人生を歩んでいこうと決意することで、許しが為されていくのではないでしょうか。

許せる強い人になるには

自分を傷つけた人が許せないとか、許せない思いを持ち続けて辛い思いをしている人も多くいると思います。

「絶対に許さない」とか「許したいけれど許せない」と様々でしょう。

現代は何事においても競争社会であるので、人よりも優位に立とうとする傾向があり、それが人を裁く心になってしまうところがあり、許さないことで優位に立とうとしているところがあるかもしれません。

傷つけられたとして相手と戦っているつもりであっても、実際は自分自身と戦っているところがあります。

許すのは負けを認めることになると考えられるケースもあるでしょうが、お互いが自分の価値観に従わせようとしているところもあるのではないでしょうか。

これは、武力で優位に立とうとするところに平和はないということと同じになります。

許すことは、その人の行動を肯定することではありません。

善悪とか、どちらが優れているかという判断ではなく、愛の目をもって裁きの思いからさよならする必要があるのです。

自分の心の中にある裁く心が愛に変われば、あなたの心が映し出した世界も変わって見えるようになるのではないでしょうか。

ガンジーの名言

もし、過ちを犯す自由がないのならば、自由を持つ価値はない。  

 

恐怖が不信を生むのです。
誰か一人でも恐れることをやめたら、我々は争うことをやめるでしょう。

 

敵を許すことは敵を憎むよりも気高いことである。

 

「わたしが非暴力を誓うのは、それが唯一、来世だけでなく今世においても、人類の至高善をもたらすと分かっているからだ。わたしが暴力に反対するのは、それが良いことに見えても、一時的なものに過ぎず、その悪こそが不変だからだ」

 

世界の不幸や誤解の四分の三は、敵の懐に入り、彼らの立場を理解したら消え去るであろう。


相手の立場を理解できないところから争いが生まれるというのは確かであり、これを知っているだけでも許す力になってくれるでしょう。

まとめ

弱い者ほど相手を許すことができない。
許すということは強さの証なのだ。

そして、「罪を憎みなさい、罪人を愛しなさい」と言ったガンジー。

差別と迫害と戦うなかで、裁きの思いを愛に変えるには許しというものがどうしても必要になるのでしょう。

何故、許せない人を愛さなければならないのか?

それは、「全ての人は愛されている存在だから」さらに「私は全ての人を愛しているから」とおそらくガンジーは言われるのではないかと思います。

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