「自分や他人」さらに「神」を信じるとはどういうことなのか
信じるとは辞書によると、
- そのことを本当だと思う。
- または、疑わずにそうだと思い込む。
という意味であるとされていますが、現実には信じ切ることは難しいものです。
この記事では、この頼りない「信じるという行為」をどのように捉えたらよいのか考えてみました。
きっと、信じる時に出てくる迷いも減ってくると思います。
目次
信じるとはどういうことなのか
信じるとはどういうことなのか?
- 自分の夢が叶うと信じている
- あの人は裏切らないと信じている
- この病気は必ず治ると信じている
- 神様の存在を信じている
など様々ですが、
信じるというのは、どうなるか分からない、または証明できるものではないから信じるしかないというものです。
では、なぜ分からないものを信じる必要があるのか?
それは、信じるという行為があるから、私たちは未来に夢や希望を描けるからです。
将来どのようになりたいかという夢や希望を描けるのも、信じるという行為があるから可能になるのであって、信じられないなら夢など描くことはできません。
だから、信じれば必ず実現するわけではないのは分かっていても、未来に向かって歩んでいくためには、信じるという行為が必要になってくるのです。
自分を信じるとは
私たちが自分を信じようと思うときとはどのような時かというと、
- 夢を抱いたとき
- 不安から逃れ安心したい時
- 自分を励ますとき
- 新たなものに取り組む時
- 周囲の期待に応えようとするとき
などがあげられますが、結果はどうなるか分からないとしても、自分の可能性を信じて歩んでいこうと思っている時であるといってよいでしょう。
自分の可能性を信じるというのは、不信や迷いとの戦いでもあります。
自分には出来ないかもしれない。上手くいかなければどうなってしまうのだろうという恐れとの戦いながら歩んでいかなければなりません。
だから、信じる力を強めていく必要があるわけですが、信じる力を強めるには、自分を信じている人がしている行動や考え方を積み重ねていく必要があり、その積み重ねの結果として信じる気持ちは信念となっていくのです。
自分を信じている人がしている行動と考え方とは何かというと、
- 正直に生きていこうと思っている
- 努力している
という2点です。
自分を信じているから正直に生きていけるのであり、自分を信じているから努力することができるのです。
また、正直に生きようと思っていれば、やってきた出来事を自分の問題として受け入れることもできるようになります。
信じる気持ちは、ちょっとした出来事や体調の変化によってもすぐに揺れ動いてしまうものです。
やる気が出なくて怠け心が出るときもあるでしょう。
人のせいにしたくなる時もあるかもしれません。
でも、そんな気持ちに襲われることがあっても大丈夫です。
信じる気持ちは、不信と戦いながら強くなっていくものであり、自分に自信があれば、いつも自信満々で信じる気持ちが揺らがないわけではありません。
だから、迷いながらも正直に生き、こつこつ努力していけるならば、自分を信じていると言えるのではないかと思います。
人を信じるとは
人を信じる必要がでてくるのは、自分では出来ないことを任せる時であり、任せるからには信じるしかありません。
だから、信じるという行為は祈りに似たものでもあるのです。
また、信じるという行為においては、結果はどうなるかはわかりませんが、信じるからには結果を期待するのは当然のことだと思います。
しかし、結果を期待するといっても、期待するのは任せた人の成長であり、自分の利益ではありません。
期待するのが任せた人の成長であるなら、期待するのは応援することにもなります。
だから期待されるとプレッシャーを感じるとしても、励みになり力も湧いてくるのです。
仕事においては、信じて任せて結果を求めるところは当然ですが、結果を求めるまえに、成長を信じてあげることが大切になります。
成長していけば、自然に結果も得られるようになってくるからです。
こうしてみると、人を信じるというのは、人を育てることでもあると言ってもよいでしょう。
神様を信じるとは
神様を信じるというのは、神様の存在を信じるというものと、どのような神様を信じているのかという2つの捉え方があります。
現実的には、神様という存在ではなく、「人間の力を超えた大いなる何か」という存在は信じることはできるが、具体的な神様は信じていないと言われる人が多いのではないでしょうか。
しかし、大いなる何かの存在を神様と呼ぶならば、自分では信じているつもりはなくても、実際は誰もが特定の神様を信じているところがあるように思えるのです。
それは、人を信じるというのは、人を育てることにも繋がっているように、信じている対象に力を与えているという事実があるからです。
例えば、自分の過ちをいつまでも許せない人は、自分を善悪で裁き続けている人であり、自覚はないとしても、「裁くという働きかけ」に力を与えていることになります。
これは何を意味するかと言えば、自分を裁き続けている人は、裁きを与える力である「裁きの神様」を信じてしまっているということになるのです。
一方、同じく過ちを犯したとしても、悔い改めればやり直せると思える人は、「悔い改めれば過ちは許されるという働きかけ」に力を与えていることになり、この人は、許しを与える「愛の神様」を信じていると言ってもよいでしょう。
このような考えが自分ひとりではなく、多くの人の考えとして集まれば、その力は大いなる力となり、神のごとく力を発揮するようになると思われるのです。
神様を信じているつもりはなくても、自分が信じている対象に力を与えていることに気づく必要はあるでしょう。
信じることの大切さ
結局のところ、信じることの大切さはどこにあるかといえば、信じなければ前に進まないというところであり、信じれば前に進めるというところにあるのです。
明るい未来が見える
世の中が美しく見える
人のよいところが見える
人生はきっとよくなっていくと思える
これらは、すべて信じるという行為からはじまっていきます。
信じるとは、明るい未来を信じることです。
信じた結果が思うようなものでなかったとしても、それをどう受け止めるかというところで自分の信念がどのようなものであるか分かるようになっているのです。
不幸な未来は信じるというものではなく、恐れに囚われた結果として表れてきたものであり、恐れを希望に変えるのも信じるという行為を使うしかないということを信じる必要があるでしょう。
まとめ
信じるという行為はどのようなものなのか?
それは、信じたとしてもどうなるか分からないが、信じなければ何も始まらない。という事実にどう向き合っていくかというプロセスです。
明るい未来を信じれば明るい未来に向かって歩んでいけるなら、多くの人が何を信じるのかというところがとても大切になります。
自分が何を信じ、どのようなものに力を与えているかを点検し修正していく必要があるでしょう。