「本当の反省とは何か」が分かれば自分を責めなくなる
反省はともすれば、自分を責めてしまうものになりがちなところがあります。
自分を責めてばかりいてもいけないと思いながらも、いつまでも責め続けてしまう人もいるはずです。
この記事では、本当の反省とは何かを知り、実践していけば自分を責めることもなくなるという話をまとめてみました。
反省とは何かを考える良い機会になると思います。
目次
反省には種類がある
本当の反省とはどのようなものだと思いますか?
実は、反省にも種類があります。
それは、反省に何を求めているかによって変わってくるからです。
実際には、どのようなものがあるかといえば、
- 許してもらうための反省
- 自分を責める反省
- 成長していくための反省
などがあげられます。
許してもらうための反省
小さい頃から私たちは「間違ったこと、悪いことをしたら、反省し謝りなさい」と言われ続けてきました。
時には自分の言い分を聞いてもらえずに悔しい思いをすることもあります。
しかし、自分よりも強い力の前ではどうしようもなく、悔しくても仕方なく謝ってきたこともあったのではないでしょうか。
良いか良くないかではなく、自分の気持ちを理解してほしいだけなのに、それを無視され、反省している態度を示さなければ許されないという経験をすることもあるでしょう。
本当は素直に謝れないのに反省しているふりをするのは、自分を誤魔化し、相手に嘘をついているようにも感じられます。
しかし、大人になると、言い訳したいところはあるとしても、社会的な立場として、このような反省をしなければ世間から許してもらえないところもあるので、許してもらうためにする反省も、反省のひとつとして機能しているところはあるでしょう。
自分を責める反省
過ちは誰もが犯すものであるとしても、過ちの内容には、単なる失敗もあれば、明らかな罪もあるように、過ちにも様々なものがあります。
なかでも自分勝手な行いや、明らかな不注意で人を傷つけてしまった場合には、自分を責めずにはいられないところはあるでしょう。
自分だけの問題ではなく、自分の行為によって傷つけてしまった人の気持ちを考えると、簡単に割り切ることなどできるものではありません。
また、自分を責め後悔するからこそ、深く反省し、改心できるところもあるように、一定期間、自分を責めるという行為がなければ自分を許せないところはあると思われるのです。
被害を受けた方も、「それほどまでに反省しているなら許してあげよう」と思えるようになるのではないでしょうか。
成長していくための反省
私たちは原因と結果の法則のなかで生きています。
原因と結果の法則があるから、努力に応じた結果を得ることができ、人生に希望を持つこともできるのです。
だから、もし今の自分の現状に不満があるならば、今までの自分の思いと行いを振り返り、修正していくという反省をすれば、自分を成長させることができるのです。
こうした反省は、スポーツの分野でも用いられているものであり、社会の進歩においても欠かせないものになっています。
反省の問題点からみた本当の反省とは
反省には、どのようなものがあるか挙げてみました。
それぞれ有効なところもあり、反省のひとつのかたちではあるとしても問題点もあります。
許してもらうための反省は、許されれば問題は解決されたと錯覚してしまう恐れがある。
自分を責める反省は、自分を責め続けているだけでは、何も解決しないまま過ぎていくだけになる。
成長していく反省は、自分がよくなることばかり考えている者同士がぶつかり合うと、歪が生まれてしまう可能性があるというところです。
それぞれ問題点はあるけれども、許してもらうための反省も、自分を責める反省も、成長していく反省に入る前段階にある反省であることがわかります。
そうであるならば、本当の反省は、成長していく反省の問題点を取り除いたものであると考えてもよいのではないでしょうか。
本当の反省とは
自分のことだけ考えていては、社会の調和が保てなくなるところを、成長していくための反省の問題点としてあげました。
だからといって調和を保つために、人の顔色を伺えと言っているわけではありません。
成長していく者同士の調和を保つためには、成長していくための原動力となっている欲望をコントロールしていく必要があるということです。
そのためには
- 日々反省する習慣をつくる
- 正しく生きる
という、2つの習慣が大切になります。
日々反省する習慣をつくる
成長していくための反省をするとしても、自分が失敗したり上手くいかなかった時だけ反省すればいいというわけにはいきません。
なぜなら、それでは自分の都合のいい時だけの反省になり、欲望をコントロールするのではなく、欲望をいかに実現させるかという方向に意識が向いてしまうからです。
欲望をコントロールするには、日々反省する習慣をつける必要があります。
どのように反省すればいいかといえば、仏教では日常生活で守るべき五戒という5つの戒律がありますが、この五戒を守ることができているかどうかを、日々チェックするというものです。
五戒(ごかい)とは、
不殺生戒(ふせっしょうかい)生き物をむやみに殺さない
不偸盗戒(ふちゅうとうかい)他人のものを盗んではいけない
不邪淫戒(ふじゃいんかい) 不倫をしてはならない
不妄語戒(ふもうごかい)嘘・偽りを言ってはならない
不飲酒戒(ふおんじゅかい)酒に溺れてはいけない
というものですが、この5つの戒めを守って生きていくには、欲望をコントロールしていく必要があることが分かると思います。
この5戒に新たな解釈を付け加えて、自分なりの戒めとするのもいいでしょう。
例えば、不殺生戒のなかに、人を傷つけるようなことをしないという解釈を入れれば、
人の悪口を言わない
不平不満を言わない
怒らない
というわかりやすい戒となり、取り組みやすくなります。
このように自分に課した戒めを、守れているかどうか日々点検するという反省をすれば、欲望をコントロールできるようになってくるのです。
正しく生きる
戒めを守っていくことで、欲望のコントロールができるようになってくるわけですが、それに伴い身に付いてくるものがあります。
それが、正しく生きようと思えるようになってくるところです。
正しく生きようと思っていれば、たとえ過ちを犯したとしても、素直に謝ることもできます。
人のせいにしたり、いつまでも言い訳ばかり言ってしまうのは、誰もが持っている弱いところではありますが、そんな自分と向き合えるようになるのも、日々、正しく生きていきたいと願っていなければできるものではありません。
完璧に正しく生きることはできないとしても、戒律を守って生きていくことで、他の人との関係においても自分の欲望や自分の価値観に基づいた正しさを押し付けるのではなく、「相手との関係のなかにおける正しさとは何か」を考えられるようになってくるのです。
このように、自分の都合のいい時だけの反省ではなく、毎日自分の思いと行いを点検し、正しく生きていくためにする反省が本当の反省であり、成長するための反省であるといえるでしょう。
本当の反省をすれば自分を責めなくなる
自分を責める反省をしている人は、心のなかに許せないという思いを持っています。
その許せないという思いのもとには、分かってほしいという気持ちがあるので、自分が理解されたと思えれば、許すこともでき責める思いもなくなります。
元はといえば、納得できない反省を強いられてきたから、自分を責めてしまう反省になってしまったのですが、納得させようと強いている人も、同じように納得できない反省を強いられてきているのです。
この連鎖を止めるには、本当の反省(正しい反省)を積み重ねていく必要があります。
正しい反省を積み重ねていくことで、反省は自主的にするものであることが分かってくるはずです。
たとえ人から反省を強いられたとしても、自分の問題として受け止めなければ反省などできません。
戒めを自分に課すのは罰ではなく、成長していくために必要なものであり、スポーツにおけるトレーニングのようなものなのです。
人を責めたところでトレーニングにはなりません。
簡単なものでもいいので自分に戒めを課し、一日の終わりに守れたかどうかの点検をしていく。
人の悪口を言わない
不平不満を言わない
怒らない
というものであっても、ある程度できるようになるには、何か月も何年もかかるはずです。
なぜ怒ってしまったのか?その原因を探っていけば、怒ることも減ってくるようになります。
相手が悪いとしても、自分の問題として受け止めれば、怒らずに対処することも可能です。
自分に戒めとして課してなければ、原因と向き合うことなどできません。
完璧にはできなくても、怒ることが減っていくだけで、毎日がとても穏やかなものになり、自分を責めなくなっていることに気づくようになるでしょう。
本当の反省のまとめ
私たちの心のなかには、反省は罪を償うためにするものという考えがあるようです。
だから、反省しているなら、それなりの態度を示さなければ許してもらえないと思っているところもあれば、人にそのように思わせたいと思っているところもあるのではないでしょうか。
なぜそうなるのかといえば、おそらくは、過ちを正すことは正義であるから誰も否定できないので、否定できないのをいいことに、人の過ちを責めることで優位に立とうとする人がいるからだと思われるのです。
ここには欲望を満たしたいという思いがあり、正しく生きていこうという思いは見当たりません。
だから、欲望をコントロールできるようになる反省が必要になってくるのです。
仏教で説かれている反省も、欲望からでてくる執着を絶つことで、囚われのない安らぎの境地に至ることができるというものであり、これが本来の反省の目的であったと思われるのです。
反省することで自分を責めるのではなく、成長していけるようになることを祈っています。