「因果応報はあるのかないのか」実話を聴いても分からない真実とは何か

因果応報とは、原因となる行い(因)に応じた報いが結果(果)として現れるという、原因に応じた結果が現れることをいいます。

もともとは、仏教でいうところの、良い行いをすれば、良い報いがある(善因善果)、悪い行いをすれば、悪い報いが現れる(悪因悪果)という、善悪どちらにも当てはまる言葉ですが、現在では、自業自得という言葉とともに、悪い結果を招く場合に使われることが多いようです。

そして、この部分に焦点を当てすぎているところから理解が難しくなっているように思われます。

この記事では、因果応報を別の視点からみることで、理解を深めようと試みてみました。

因果応報の良い面に気づけるのではないかと思っています。

因果応報の実話の疑問

因果応報の実話は、身近なところで数多く語られていて、悪いことをすれば悪い報いを受けるというところは受け入れられるものです。

では悪いことを受けた自分も悪いことをした報いを受けたとなるならどうでしょう。

実話を認めると、身に覚えのない何らかの自分の行為を認めなくてはならなくなります。

思い当たる節がなければ、前世の報いが今世に現れていると言われることもあり、それを素直に受け入れるのも難しいのではないでしょうか。

因果応報の教えは、行いに応じた結果が現れるならば、善い行いをしましょうという勧めになりますが、「善い・悪い」という部分にだけ焦点を当てると、納得できないところが出てきてしまいます。

因果応報あるのかないのか?

因果応報は、自分が撒いた種は自分が刈り取らねばならないという言い方もされています。

朝顔の種を撒けば朝顔となり、ひまわりの種を撒けばひまわりとなるというものです。

説明としては分かりやすいのですが、実際は種を撒いても育て方によって花は咲かず枯れてしまうこともあります。

これは、原因の因には「育て方」まで含んでいて、単に良い行いをしたら良い結果が現れるという単純なものではなく、「結果が出るまでの育て方」全てが関わっているのです。

ですから、あと一歩のところで手を抜き枯れてしまったり、適当に育てていても、たまたま環境がよければ上手く育つこともあるでしょう。

このように行動と結果のギャップの差が大きければ、理不尽さも感じられ、因果応報は信じられなくなってしまいます。

しかし、ほとんどの人は、因果応報は信じないわけではないが、理不尽な世の中をどう考えればいいのか分からないというところではないでしょうか。

また、結果がでるまでに時間がかかることも関係していると思われます。

因果応報は忘れた頃にやってくる

因果応報は忘れた頃にやってくるというのは、時間をかけなければ評価が定められないところがあるからだと考えられます。

例えば、万引き行為をした場合、本人の心は揺れ動いているはずです。

万引きを正当化する場合もあるし、後悔して真面目に生きようと決心する場合もあるでしょう。

万引きを正当化し続けていけば、そのような考えの積み重ねで、やがて罪悪感がなくなるという思いが定まってきてます。

そうして、定まった思いに基づいて現実が引き寄せられ、逮捕されたり、他で大きな出費がかさむなどして結果が現れてくるのです。

万引きを後悔して真面目に生きようと決心した場合、償いの意味から寄付をするようになるかもしれません。

そして、それが当たり前の行為になり、本人の考えとして固まれば、その考えに応じた結果が現れるというものです。

これは引き寄せの法則でもありますが、因果応報でもあります。

このように、途中のプロセスを通して考えが固まるまでに時間がかかることと、プロセスの途中で考えが変わってくるので、結果は忘れた頃にやってくるようになるのでしょう。

人を傷つけた人の因果応報

人を傷つけてしまった場合には2通りあり、本人が自覚している場合と、自覚していない場合があります。

また、自覚していても悪いと思ってなく、自分の立場を正当化している場合もあるでしょう。

傷つけた自覚がある場合の因果応報

人を傷つけた自覚があって問題になるのは、開き直って正当化している場合です。

中には謝ったのに全く許す気がないからと、逆切れし開き直ってしまうケースもあるでしょう。

いずれにしても、その件で心にどのような葛藤を持ち続けるかにかかっているといえます。

開き直っていてなんとも思っていないとスッキリした顔をしていても、心の奥底に葛藤を抱えているのは間違いありません。

なぜなら全ての人には良心というものがあり、それを誤魔化すことなどできないからです。

心の奥底にある葛藤はいずれ何らかの出来事を通して、表に出てきて、向き合わざるを得なくなってきます。

このように、やがてその心に応じた出来事がやってくるとしても、心の奥に葛藤を抱えている間もスッキリしない人生を送ることになるのです。

無頓着で傷つけた自覚がない場合の因果応報

人を傷つけても、全く無頓着に過ごしている人もいるでしょう。

こういう人は自覚がないのだから、因果応報から外れているようにも思えますがそうではありません。

なかには無邪気な人として許してもらえる徳のある人もいるでしょうが、傷つけられた人の念だけでなく、世の中には様々な悔しいという念が飛び交っています。

傷つく領域は人それぞれ様々であり、無頓着な人でも傷つく領域は必ずあり、その人に合った念が引き寄せられてきます。

それがどのような形で現れるかは定かではありませんが、いずれ自分も傷つく悔しい出来事を経験し、今まで気付かなかった人の気持ちに気付くようになっているのです。

因果応報の連鎖

因果応報は原因と結果の連鎖によって続いていきます。

自分が辛く悔しい思いを経験することで、人を傷つけていた事実に気づき、新たな気持ちで生きていこうと決心したところから、また新たな因果応報が始まるのです。

そして、人の気持ちに寄り添えるようになれば、それに応じた人生に変化しますが、決心してもすぐに忘れてしまい何も変わらなければ、今度は違ったかたちで間違いに気づくまで、何度も悔しい思いを経験することになるでしょう。

因果応報は必ずあるが罰だけではない

因果応報は理不尽とも思える現実の意味が理解できれば、信じられるのではないかと思います。

例えば、東京から大阪まで車で行こうとした場合、間違った道を進んでしまえば目的地から遠ざかってしまいます。

道を間違えたことで他の人に損害を与えれば悪になるかもしれませんが、状況は様々ですが、悪意があろうがなかろうが、道を間違え遠回りした分、余計に時間と労力がかかるのは確かです。

このような間違いは、決して全てが悪であるわけではありません。

また無駄に思える遠回りした経験が、人生観を深めてくれることもあるでしょう。

こうしてみると、因果応報は誤りに気づき修正し、成長していくための学びとして捉えることも出来ます。

因果応報があるということは、間違ったマイナスの人生を歩んでしまっても、改心してプラスの人生を積み上げていけば、人生をやり直せるチャンスがあるということになるのではないでしょうか。

許せない辛さをどう解放するのか

ひどい仕打ちを受ければ、仕返しをしたくもなります。

人を苦しめたならば、その分は苦しめばいいと思うのは、被害を受けた立場であれば理解できるでしょう。

因果応報があるならば、裁かれてほしいと願いながらも、もう一方で、人の不幸を願っている自分に苦しみを感じてしまうところもあると思います。

これは何を意味するかといえば、本来すべての人は、可能ならば「いい人でいたい、良い人間でありたい」と願っている証拠にもなるのではないでしょうか。

聖書の中の話で、罪を犯した者は石打の刑にしてもよいかどうかの判断を求められたイエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」と言ったところ、誰ひとりとして石を投げることができなかったという話があります。

裁かれるものならば、自分が裁かなくても法則によって裁きは受けるでしょう。

しかし、その裁きは単に裁きのためだけにあるのではなく、間違いに気づき軌道修正し人生をやり直すチャンスでもあることを忘れないようにしたいものです。

許せない辛さは、辛い気持ちが納得できるだけの理由がないところに大きな原因があります。

辛さの意味が分かれば、次第に落ち着いてくるようになるでしょう。

因果応報とスピリチュアル

許すことは、過ちをなかったことにするわけではありません。

過ちを犯した人が間違いに気づき、いい人になる可能性を信じてあげる、願ってあげるということです。

ここには愛があり、だから許しは愛になるのです。

これが許しの原点にあり、現在許せない思いで葛藤しているならば、まさに今、許しとは何かを学んでいる最中にあるといえます。

スピリチュアル的には、因果応報を通して、あなたは許す人生を歩むのか、裁く人生を歩んでいくのかを試されているといってもよく、それは、あなたが愛深い人間になりたいと願っているからやってきた出来事であると捉えることもできるでしょう。

まとめ

因果応報は世の中の出来事を見て、筋が通っていると思えれば、あると信じることができるものです。

因果応報は信じられないという考えもありますが、本当に世の中が理不尽で成り立っているならば、夢を描くことも希望を持つことも空しいものになってしまうのではないでしょうか。

世の中の出来事を善か悪かのどちらかで判定しようとすると、どうしても理不尽に思えてしまうところはあるでしょう。

全ては学びの材料としてあるとすれば、因果応報はとても公平なものになります。

この記事が、考える材料になれば幸いです。

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