「人生辛いだけ」前向きに考えられればいいけど、それを妨げているものは何か
徳川家康の残された言葉に、「人の一生というものは、重い荷物を背負って遠い道を歩んでいくようなものだ」という内容の人生訓があります。
確かに、人生には辛い出来事がつきものであり、誰もが辛い思いをし、時には人生辛いだけという思いに囚われてしまうこともあるかもしれません。
幸せは心の持ち方だから、「物事の明るい面を見よう」と言われますが、簡単に切り替えられるなら問題はありません。
しかし、明るい面を見ようとすればするほどに苦しくなるケースも多いのではないでしょうか。
逆に言えば、苦しくなるから明るい面を見ようと思わなくなってしまうと言い換えられます。
何故明るい面を見ようとすると苦しくなるのか?
それは、明るい面を見たくないという何らかの心理が働いているからであり、ここに辛い人生から抜けられなくなってしまう原因もありそうです。
この記事では、辛い人生の中から希望を見出すためにはどうしたらよいのか?
その原因と解決のヒントとなる考え方をご紹介してまいります。
目次
人生辛いだけではないはずなのに
「人生苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」ということわざがあるように、人生には苦しみがつきものです。
時には辛い出来事の中で希望を見失いながらも、悲しみと喜びを繰り返して成長していく中で幸せを味わっているのが、多くの人が経験されている人生のよう思われます。
このように、人生には辛い出来事も楽しい出来事もあるなかで、人生辛いだけという気持ちになってしまうのは、それなりの理由があるはずです。
その原因のひとつとして、「どうして私がこんな目に遭わなければならないのだろう」という理不尽さを感じる出来事があり、そこが納得できないというところが大きな理由になっているケースがあります。
この理不尽さを自分なりに解消しなければ、人生に喜びを見出していくことは難しくなってしまうでしょう。
辛い出来事の意味は
赤ちゃんや子供を見ているとよくわかりますが、私たち人間は成長していくという遺伝子をもっています。
体の成長はプログラムされていて、何も考えなくとも大きく育っていきますが、精神的な成長は何の刺激もなく年月を重ねても育ちはしないでしょう。
この精神的成長を刺激する役割を、辛い出来事が担っているのではないかと考えられます。
アスリートが辛い練習を通して一流になっていくように、成長に欠かせない負荷の役割を担っているといってよいでしょう。
さらに、アスリートの例えから、辛い出来事は負荷であるから苦しみであるかといえばそうでもなく、気持ちの持ち方次第で楽しく思うことも可能になるという特徴もあります。
辛いだけの人生にしないために
アスリートの例えでは、辛い練習は自ら望んだものですが、実生活のなかでの辛い出来事は、自ら望んだものでなければ、成長とどのように関わっているかなど考えることもなく、ただ解消したい問題であり、苦しみそのものかもしれません。
辛い出来事には、突然にやってくる事故や災害もあります。
不運が続けば、「何故私ばかりに」という疑問も出てきます。
また、生まれた環境があまりにも不遇であれば、運命を恨みたくもなるでしょう。
こうした場合には辛い出来事に対して、どうしてこうなるのかという理由に目が向きがちになります。
理由さえ分かれば納得できるとしても、残念なことに理由が分からない出来事も多くあります。
「人生楽あれば苦もある。そう考えるしかない」と割り切り、受け入れることで、意識は辛い出来事から明るい未来に切り替わります。
しかし、理由が分からなければ納得出来ない場合には、簡単に納得してしまうのは、辛い出来事から逃げているように見えるところもあり受け入れられません。
そうなると、答えも出ない世界に居続けることになり、意識は辛い世界に向き続けることから、さらに辛い出来事を引き寄せるようになってしまいます。
人生とはそういうものだ
理由が分からないから納得できないところは確かにあります。
しかし、「人生とはそういうもの」というのも、ひとつの答えになるのではないでしょうか。
要は自分が納得できればそれが答えになります。
答えは、それで人生が明るくなるかどうかが大切であり、いくら答えに正当性を求めても、分からないものは分からないとしかいいようがありません。
どうしてこうなるのかという答えよりも、どうすれば未来に希望が持てるかと考えるほうが大切だと思えるかどうかです。
宇宙の仕組みの中にいる私たちには宇宙の仕組みを作った存在の意図は分かるはずもありません。
辛いだけの人生の意味が分からなくても、その中から明るい希望を見出すことを期待されているのが人生なのかもしれません。
辛い人生を受け入れることで道が開ける
分からないことを分からないものとして受け入れると、心のなかの抵抗がなくなります。
そうして人生の流れに身を任せていくと、今まで理不尽だと思われていた人生が、実はとても公平なものであると思えるようになってきます。
この公平さとは、原因と結果のプロセスの繰り返しのもとに、すべての人は生きていると思えるところから始まります。
ただし、そう思えても、辛い出来事がすべて楽しくなるわけでもなく、また、辛い出来事が起きた理由に全く囚われることがなくなるわけでもありません。
しかし、全ての人に共通の法則が働いているならば、誰もが幸せになれる可能性はあります。
それは未来に希望を持つための根拠になり、辛い出来事の中にあっても、早く明るい未来を見出せるようになるのは確かです。
幸せを見出す能力が磨かれる
環境に恵まれているのは喜ばしい限りですが、環境に恵まれていても不幸感覚の強い人がいるのも確かです。
それは贅沢な人の意見であり、自分に関しては環境さえ良ければ幸せになれると思っている人もいるかもしれません。
しかし、幸せは日常生活の中で見出すものであることに関しては異論はないと思います。
幸せは環境に関わらず、見出す能力といってもよいでしょう。
ですから、辛い中から幸せの種を見出せたら、幸せになる能力はとても高いものになります。
これは、幸福感を高める機会が与えられていると言ってよいのかもしれません。
辛い人生は罰ではない
辛い人生は罰として与えられているものばかりではありません。
確かに、過ちを犯した罪の代償としての罰はあります。
しかし、人生の中で罰は罰としてあるのではなく、罰を通して学んでほしい、罰を通して成長してほしいという願いがあるのではないでしょうか。
辛い出来事も悪い行いをした罰としてあるのではなく、
辛い経験を通さなければ学べないことがあるのでしょう。
特に、辛い経験を経なければ悩みを持っている人の気持ちには無関心になってしまいます。
辛い人生が罰であるならば、何も悪いことをした記憶がなければ、理不尽に思うのも分かりますが、学びを得るためのものと考えれば、行動の良し悪しは関係なく辛い出来事はやってきます。
だから、家康のように天下を取っても「人の一生というものは、重い荷物を背負って遠い道を歩んでいくようなものだ」という言葉にもなるのでしょう。
さらに付け加えるならば、この学びは大きな喜びを伴うものであることは多くの人が経験されているはずです。
可能性があると思えれば人生は変えられる
人生の辛さに理不尽さを感じると、人生そのものを認めたくなくなるので、未来に希望を見出すことができなくなります。
しかし、辛い出来事が喜びを伴う学びのためのものであれば、理不尽さは感じなくなり、辛い出来事に向き合えるようになります。
「未来はよくなる」と今は思えないとしても、「未来はよくなる可能性がある」とさえ思えれば、それは心の中に希望の種を蒔いたことになります。
それを信じていけば、必ずや種は育ち、実をつけるまでに成長していき、人生も変わっていくでしょう。
まとめ
人は納得さえできれば自分の損得など関係なく行動できるという美点をもっています。
この納得というのは、別な言葉では心のなかにある正義といってもよいものなので、簡単に覆すことは難しいものです。
しかし、正義もこだわり過ぎると争いのもとになります。
人生は分からないことばかりです。
だからこそ新たな発見には喜びが伴うのでしょう。
- 人生とはそういうもの
- 辛い出来事は罰ではない
等の話をしてきましたが、この記事が何らかの参考になれば幸いです。