許すことは過去を手放し愛を深めるためにある
許せない人がいるということは辛いものです。
辛い経験をされただけでなく、現在もその辛さを引きずっているのは大変なことでしょう。
- 許すとはどういうことなのか
- 許すことが難しい理由
- 許すことの大切さ
- 許すことは理解すること
- 過去を手放す方法
等の考えを紹介することで、許すことのヒントになればと思います。
目次
人を許すこととは
何らかの事情があり、人を許せないでいる人は多くいるものです。
裏切られた、見下されたなど許せない理由も納得できるものが多くあります。
悪いのは相手であるのに、傷つき苦しんでいるのが被害者の自分であることが、なおさら相手を許せない結果となります。
このような許せない気持ちには怒りや裁き、恨みなどのマイナス感情があり、他の人に向けたものであっても、許せない思いを持ち続けるかぎり、マイナス感情をもった自分がその過去の重荷を背負わなければなりません。
こうしたことから、人を許すことは自分が背負った過去の重荷を手放すことになるのです。
自分を許す
許せない自分がいるのはどうしてでしょうか?
- 何らかの罪の自覚があり許せない。
- 完璧主義で上手く出来ない自分が許せない。
という理由が考えられます。
1のケースでは「自分が許せない」というよりも、「自分は許されないだろう」という「他のなんらかの力によって罰せられるのではないだろうか」という恐れになりやすいでしょう。
2のケースは自分に対するより多くの要求として現れてきます。
いずれにしても、自分自身に重荷を背負わせるのは辛いものです。
自分を許すことも人を許すことと同じく、自分が背負っている過去の重荷を手放す働きになります。
許すことができない理由
人生が上手くいっていない人と話していると、誰かを、または何かを許せずに恨んでいるケースがよくあります。
「許すこと」で人生の流れが良くなったり、体調がよくなることを話しても、「他人事だから言えるのだ」と言われる方、分かっているけれど許せないという方は多いものです。
何故、そこまで頑なになってしまうのかその理由を2点あげてみます。
人を許すことは善悪の正しさに関わる
人には誰もが良心というものをもっていて、良心の判断は人それぞれですが、多くの人は何か悪いことをすれば、罰せられるという恐れをもっているものです。
だから、自分に落ち度があると分かっていれば、許すことも容易ですが、「私は絶対に悪くない」とか、「ここまでするのはひど過ぎる」と思っていて許すのは、悪くない自分が裁かれる理不尽さを感じてしまう結果になります。
まして、悪い、イコール裁かれるという恐れを持っていればなおさらです。
こうした理不尽さは「正しさ・正義」に関わってくる自分の信念を揺るがす問題でもあるのです。
結果にこだわりすぎると許せなくなる
完璧主義の強い人に多い傾向ですが、「○○でなければならない」という結果にこだわりすぎていては許すことは難しくなります。
「○○でなければならない」というのは、自分がもっている信念です。
信念であるために、自分にとっては正当性があり、結果を自分にとっての正しさで判断する結果になります。
「○○できなければだめだ」という考えは自分に対する「裁き」になっているので、無意識のうちに、○○出来なければ、なんらかの制裁を受けることになると信じてしまっているのです。
いずれにしても、許すことは自分が持っている「正しさ」が崩れる恐れを感じてしまうのでしょう。
このように、「許すこと」は「正しさ」の問題を抜きにしては語れません。
「正しさ」の解釈が変わるか、もしくは、時間の経過と共に、こだわっていた考え方がどうでもよくなった時に、人は許せるようになるのです。
許すことの大切さ
「許せない」こだわりは、本人の正しさの考えに関わっているので、自己責任としては許せなくてもよいかもしれません。
しかし、自分だけの問題ではないとすると、自己責任では済まなくなってしまいます。
「許せない」思いは伝わる
許せない思いを強く持っている人は、自分の思いを分かってくれる人を求めているものです。
分かってほしいという思いには、正当性を主張するなかに裁く気持ちが入っているので、聞き役としては居心地が悪く距離をとるようになるかもしれません。
これが、よく言われる「誰も私のこと分かってくれない」という原因かもしれません。
また、スピリチュアル的にみると、許せない思いを持っている人は許せない出来事を引き寄せることにつながり、結果として、許せない出来事を拡大させてしまいます。
また、人の思いは良きも悪しきも伝播していきます。
許せない思いをもつ人が増えると、恨みが広がっていくことにもなるのです。
恨みの連鎖を止める
自分が悪いという場合でも、一方的に責められたら、素直に謝れない気持ちも理解できます。
許せない行為をした人に悪意がある場合もあるでしょうが、本人には悪意などなく、人を傷つけたことは残念であっても、自分なりの正当性をもっているものです。
その正当性というのは、例えば、結果としてはあなたを傷つけてしまった。
しかし、わたしにも私なりの言い分がある。
なのに、あなたは結果ばかりに目を向けて、私の動機など考えようともしてくれないではないか。
という言い分もあるのです。
傷つける行為をした人にも自分なりの正当性、「正しさ」というものがあり、また自ら罪悪感を抱えて苦しんでいるかもしれません。
人を傷つけた方も、正しさの解釈が変わるか、もしくは、時間の経過と共に、こだわっていた考え方がどうでもよくならない限り、素直に謝れないし、自分を許すこともできないでしょう。
つまり、「許す」という中には、自分自身の中で、もしくは、相手との間で「正しさ」対「正しさ」がぶつかりあっているといってよいでしょう。
正しさのぶつかりあいが長引くと、争いの中に「恨み」が芽生えることもあります。
だからこそ、「許すこと」が大切になってくるのです。
許すことは理解すること
「正しさ」対「正しさ」の話になると話が大きくなりすぎてしまうので、ここでは、一方的に許せない相手を許す場合を考えてみます。
正しさの解釈を変える
一方的に傷つけられた場合でも、自分が持っている「正しさ」の解釈が変わらなければ、相手を心から許すことはできません。
「正しさ」の解釈が変わる。
つまり、正しさとは何かを考える必要がどうしても出てくるのです。
例えば、
あなたに子供がいるとして、その子供が何かとても悔しい思いをして、悔しさのやり場がなくて、あなたに暴力をふるってきたとします。
なぜ暴力をふるうのかを聞いてみると、
「だって、悔しいんだもの」と言ったとします。
それに対して、理由はともかく、暴力はいけません。謝りなさいと厳しく叱ることは善悪の観点からはとても大切なことであり、間違ってはいないと思います。
もう一つの対応として、
子供がいきなり暴力をふるってきた。
なぜ暴力をふるうのかを聞いてみると、
「だって、悔しいんだもの」と言った。
あなたは自分の子供がとても素直であるのを知っているので、「何があったの?」と優しく問いかけながら、ぎゅっと子供を抱きしめてあげることもできます。
最終的には理由を聞いて、暴力はいけないという話をするとしても、2つの対応の決定的な違いは何かというと、善か悪かという判断には愛情など必要ないということなのです。
善か悪かの判断の中に愛が入ると、相手や自分を理解しようと思う気持ちが湧いてくるのです。
愛情の差、理解したいという気持ちの差が現れているのでしょう。
許せないところには愛はないのです。
理解するには愛情が必要になる
人を理解しようとしたら、愛情がなければ理解しようとは思いません。
愛情のない判断だけでは、理解できる範囲も限られたものであり、子供のした行動を、より深く判断することが出来なくなってしまいます。
「愛情の深さ」の違いがどのように「正しさ」のなかに現れるかというと、それは、善悪の判断を下す前に、相手を理解しようとする気があるかないかの差となって現れるといってよいでしょう。
相手を理解しようと思わなければ、自分の考えだけにとらわれる結果になり許すことも難しくなってしまいます。
理解できたからといってすぐに許せる訳ではないとしても、許すことに近づいているのは確かです。
暴力をふるう子供を抱きしめて理由を聞き、あとで「暴力はいけません」と言い聞かせた後に、普段、子供に我慢しなさいと抑え込んできたことが、子供が自分に暴力で返してきた結果であったと気付くこともあります。
許すには正しさの解釈が変わる必要があるとは、
「許すこと」は善悪の判断だけでは出来ない、理解しようとする愛情が必要になるのです。
私たちは何らかの事件を通して学ぶようになっているのではないでしょうか。
そして、私たちは「愛」を深めるために許しという機会を与えられているといってよいでしょう。
許せない過去を手放す方法
私たちは愛を深めるために「許す」機会を与えられていますが、愛を深めるには時間がかかるように、許せない過去を手放すにも時間が必要です。
多くの許せない出来事は時間の経過と共に薄れていきますが、辛いのは許したくても許せない自分をなんとかしたい時ではないでしょうか。
許せないのが自分であろうが、他の人であろうが、許せない思いを無理に許そうとすると苦しくなってしまいます。
そんな時は、許せない気持ちを解放させる方法をとるのがよいでしょう。
その方法は、
- 許せない感情を味わう
- 許せないところをノートに書き出す
という方法です。
許せない感情を味わう
許せないという感情は、許せないというだけあって、普段は心の奥に許せないという思いによって閉じ込められています。
自分の感情の一部であるのに抑え込まれてしまえば、いい気はしないので、時折暴れたりするのですが、抑え込まれている限りは同じことを繰り返すしかありません。
本当は分かって欲しいのです。
否定された気持ちの辛さを理解して欲しい。
その気持ちを理解し、分かる方法が、同じ感情を味わってあげることなのです。
同じ気持ちを味わってあげることで、分かち合いがなされ、抑え込まれていた感情は解放されていきます。
やり方としては、嫌な気持ちが湧き出てきても、ただ湧き出るままに眺めているだけにするのです。
嫌な気分になるのは最初だけであり、そこで気持ちを抑え込もうとすると暴れだすので、ゆっくり呼吸しながら、湧き出るままにしておけば、しばらくすると落ち着いてきます。
この方法は、許せない気持ちだけでなく、嫌な気持ちすべてに使える方法なので、覚えておくとよいでしょう。
許せないところをノートに書き出す
感情を味う方法は感情が出て来てないときには味わうことが出来ません。
そんな時でも出来るのが、許せない人の許せないところ、嫌いなところをノートに書き出していくという方法です。
実際に書こうとしても、あまり出てこないものですが、頭をふり絞って言いがかりでもいいから、とにかく書いてみてください。
不思議ですが、書いていくうちに、相手の悪いところだけではなく、自分の至らぬところに自然に気付くようになります。
相手の許せないところを冷静に考えて書き出していくうちに、客観的な視点が入るようになるのでしょう。
続けていけば、相手のしたことが気にならなくなっていたり、こだわっていたことが笑い話に変わることもあるので一度試してみてください。
人を許すこと名言
最後に許すことを手助けしてくれる名言を贈ります。
弱い者ほど相手を許すことが出来ない。
許すということは、強さの証だ。
マハトマ・ガンジー
そして、ガンジーの影響を強く受けたキング牧師は
人を許すことを覚え、身につけなければいけません。許す力量のない者には、愛する力もありません。最悪の人間にもどこか取り柄があるように、最高の人間にも悪い面はあります。これがわかれば、敵を憎む気持ちが薄れます。
という言葉を残しています。
愛がなければ許すことは出来ない、そして、愛の力が強さの証なのでしょう。
まとめ
- 許すことはどういうことか
- 許すことが難しい理由
- 許すことの大切さ
- 許すことは理解すること
- 過去を手放す方法
等の考え方を紹介してみました。
結論としては、愛が深まった分だけ許すこともできるようになるということです。
愛が深まるとは、上空から地上を眺めているようなものかもしれません。
想像してみたら、私たちのこだわりなど小さなものでしょう。
この記事が少しでも「許すことの力」になれば幸いです。
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