執着を手放すためにスピリチュアル的に引き寄せているものを解放させよう
「求めよさらば与えられん」という言葉は、熱心に求めれば必ず与えられるという意味で使われています。
地位や名誉、お金、恋愛関係においても熱心に求めれば叶う確立は高まるでしょうが、執着するほどに求めてしまうと、逆に望みは叶わなくなってしまうと多くの人は感じているのではないでしょうか。
この記事では、求めすぎてしまうと叶わなくなってしまう執着とは何か。
そして、執着を手放す方法をスピリチュアル的な視点でまとめてみました。
目次
執着とは何か
執着とは、一つのことに心をとらわれて、そこから離れられなくなっている状態のことをいいます。
- 彼はお金に執着している。
- 彼女は異性に執着している。
- あの人は地位や名誉に執着している。
など、執着という言葉には欲が絡んでいるように感じられ、あまりいい印象はしないかもしれません。
仏教では、執着し、一つのことにとらわれていると、物事の道理が見えなくなるところから苦しみが生まれるとされ、執着を手放す大切さが説かれています。
手放す必要がある執着とは
執着する対象としては、
お金、恋愛関係、地位、名誉、食べ物、見た目など、自分の欲望を満たしてくれる対象に対してなされるものだといえます。
とらわれることは、執念というこだわりにも似ているところがありますが、執念も欲望を満たすためのものであれば執着になり、自分だけでなく他の人の幸せを考えるものであれば情熱になるでしょう。
スピリチュアル的に言えば、求める気持ちが天国的なものであれば情熱となり、地獄的なものであれば執着となると考えていいと思います。
よって、私たちが手放す執着とは地獄的な欲であり、いくら言葉で人のためと言っていても、心のなかの思いが自分の欲でいっぱいになっているなら、その思いを手放す必要があるのです。
執着が引き寄せているもの
一つのことに心をとらわれて、そこから離れられなくなっている執着が引き寄せているものは何かと言うと、
大きくは2つあります。
それは、
- 心の三毒
- 執着を手放すことが出来なくなる現実
の2つです。
心の三毒
仏教では、貪瞋痴(とんじんち)という三つが、心を毒する代表的なものであり、苦しみの原因であるとされています。
貪 とはむさぼる心、欲望の尽きない心であり
瞋 とは怒りの心
痴 とは愚かな心のことです。
そして、この三毒は執着するところから生じてきます。
つまり、執着が引き寄せている苦しみが貪瞋痴であるのです。
執着するから欲望が尽きなくなり貪りの心が生まれ、欲が抑えきれなく満たされないから怒りが出てくる。
そして、このように物事の道理が分からなくなっている姿を愚かと言うのです。
欲望の尽きないことが苦しみの原因であるのは、欲望の尽きない世界は地獄の世界であり、心が地獄の世界と通じてしまうからです。
執着してしまう気持ちは誰にでもあるでしょうが、執着し続けると心が地獄的になってしまい、それに染まってしまえば、抜け出すのが難しくなってしまいます。
執着を手放すことが出来なくなる現実を引き寄せている
執着を手放すことが難しいのは、執着を手放したら大変なことになると思われる現実があるからであり、さらに、その現実を自分が引き寄せているからです。
例えば、お金に執着している人の多くが恐れているものに、お金を失うことがあります。
お金を失う恐れを強くもっている人によく見受けられる出来事として、
- 予定してない急な出費がよくある。
- 家族の誰かが無駄遣いをしている。
などのケースがあり、そうなると自分がもっとしっかりしなければいけないと思うようになり、さらにお金に対する執着は手放せなくなってしまいます。
お金を失う恐れを強くもっているために、「お金が無くなったらどうしよう」という不安を感じる出来事を引き寄せているところがあるのですが、こうした出来事を自分が引き寄せていることだと気づくのは難しいものです。
お金を失うことへの恐れは誰もがもっているとしても、お金が減っていくところばかりに意識が向いていると執着になってしまい手放せなくなってしまいます。
執着を手放すスピリチュアル的な方法
執着を手放すには、執着してしまう原因に目を向ける必要がありますが、本当の原因には、なかなか辿り着けるものではありません。
それは、テストの点数が悪かったのは、勉強しなかったという原因があるとしても、勉強しなかったのも何らかの原因があるというように、執着が深いほどに、本当の原因も深いところにあるからです。
原因が深いところにある執着の原因を突き止めるには、穏やかな心で自分と向き合う習慣が必要になります。
それは、執着する気持ちをもったまま自分と向き合っても、深く向き合えないからです。
ですから、執着を手放すには、執着している問題そのものではないところに目を向けるほうが入りやすいでしょう。
方法としては、
- 不平不満を吐き出す
- 感謝を習慣にする
- 与える人生を意識する
という3つが有効になります。
不平不満を吐き出す
執着という満たされない思いは、必ず何らかの形で日常生活の中に表れてきます。
多くは、不平不満や怒りとして日常生活に表れているはずです。
- 怠けている人がいると無性に腹が立つ。
- いい加減な人に我慢できない。
- 威張っている人は許せない。
など、人それぞれであるとしても、自分が感じるところには、何らかの傾向があるはずです。
また、その場で文句を言えることもあるでしょうが、多くは心の中にため込んでいるのではないでしょうか。
- 最近感じている不平不満にはどんなものがあったか。
- 今日、頭に来たことはなかったか。
など、自分と向き合う時間の中で、その時の気持ちをノートに書き出していけば、心の中のモヤモヤが解放されスッキリしてくるはずです。
心の中に不平不満が溜まっていては、正しい判断などできないので、まずは自分の気持ちを吐き出す必要があるのです。
気持ちが上手く表現できなければ、
- とにかく許せん!
- 頭に来る
- バカヤロー!
- いい加減にしろ!
でもよいでしょう。
少しでも気持ちを吐き出していけば、次第に自分の気持ちを言葉として表現できるようになり、自分の気持ちを理解できるようになってくるとともに、モヤモヤした気持ちも収まってきます。
感謝を習慣にする
執着しているところに感謝の気持ちはありません。
感謝の大切さを知り、感謝を習慣にしようとしても、感謝の難しいところは、自分の都合のいいときだけの感謝になってしまうところです。
ありがたいと思えれば、誰でも感謝できますが、不平不満を感じているところに対して感謝するのは無理があります。
無理に感謝しようするから、余計に感謝出来なくなるのだから、不平不満が溜まっているなら、まずは、その思いを解放させる必要があるのです。
物事には、良い面も悪い面もあるので、不平不満が解放されれば、良い面も見えるようになってきて、不満な面はあるとしても、ありがたいところもあると思えるようになってきます。
こうして感謝できるところを探す習慣をつけていくことで感謝が深まり、こだわっていた執着も薄れていくのです。
与える人生を意識する
執着とは、求めて手放せない気持ちです。
仏教では、執着が苦しみの原因であるとしているので、執着を手放す方法も説かれています。
それが、布施の心、与える気持ちであり、仏教においては、布施は執着を取り去るための修行であるとされています。
布施には仏教的な解釈はあるでしょうが、現代的には与える気持ちであり、
- 笑顔で接する
- 親切にする
- 知っていることを教えてあげる。
- 寄付をする。
など、自分の出来ることで、誰かのお役に立つことと考えればわかりやすいと思います。
また、普段から、出会った人の幸せを願ってあげるのも与える気持ちであり、執着を手放す力になるでしょう。
まとめ
執着を手放すために、執着がスピリチュアルに引き寄せているものは何かを明らかにし、手放す方法を解説しました。
一言で言えば、執着が引き寄せるものは、地獄的な思いです。
地獄的な思いから離れるには、天国的な思いで生きていくしかありません。
それには、日々、天国的な生き方をしていこうと決意することが必要になるでしょう。
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