祈りの力と効果を高めるスピリチュアル的な考えかたとは何か

祈りというと、宗教的なイメージがあり、クリスチャンの祈りの姿を想像してしまうのは私だけではないと思いますが、クリスチャンではない私でも、振り返ってみれば、日常的に祈りを捧げていることに気づきます。

祈りとは、とてもスピリチュアル的なものですが、日常的に捧げている祈りとは何かと考えることも少ないものです。

この記事では、祈りの力・効果とはスピリチュアル的にどういうものなのかについてまとめてみました。

きっと、祈りの効果も上がるのではないかと思っています。

祈りとは

私たちが祈るときとは、どういうときでしょうか?

身近なところでは、神社仏閣にお参りするときです。

また、事故や災害に見舞われたときや、病気にかかったときなどは、それが自分のことではなくても、思わず手を合わせ、何かに対して祈らずにはいられなくなったことは、誰もが経験しているのではないでしょうか。

この何かという存在を神様というならば、祈りとは、神仏にお願いをして望みを叶えようとすることになります。

望みを叶える方法としては、様々な自己実現の方法がありますが、これらの方法と祈りとの差はどこにあるかといえば、決定的な違いは、神様または、人間の力を超えた何らかの力の存在を必要としているかどうかというところではないかと思われます。

神様のことを「偉大なる何ものか」という意味で「サムシング・グレート」と呼ばれることもありますが、呼び名はどうであれ、私たちの生きている世界には何らかの意思が働いていて、祈りはそれに向けての働きかけになりますが、自己実現法は、法則の作用を上手く使うことを試みているものであるといえるでしょう。

また、引き寄せの法則や、イメージングなどは、法則の作用さえ信じていれば、自分1人でも成り立ちますが、祈りの場合は、神仏、あるいは、自分の力を超えた何ものかの存在を認めていなければ成り立たないものであり、祈りとは何かは、神仏または、偉大なる何ものかとの関係を探っていけば明らかになってくるはずです。

祈りの効果

私たちは、日常的に様々な祈りを捧げています。

  • 今日も健康でいられますように。
  • 仕事の取引が上手くいきますように。
  • 試験に合格できますように。

このような祈りを捧げても、望みが必ず叶うとは限らず、なかには「祈りには効果などない」と思われる人もいるかもしれませんが、多くの人は、願いが叶わないことがあったとしても、それ以降も何か機会があれば、祈りを捧げているのではないでしょうか。

祈りの効果は、病気の人に対して「病状が良くなりますように」という祈りを送った人と送らない人とでは、どのような差が出るかという実験がアメリカで様々になされています。

結果としては、全ての実験において、祈りを送ってもらった人達の方に良い結果が表れているというものでした。

また、毎日祈りを奉げている人は、祈らない人よりも長生きしているという調査結果もあり、祈りには何らかの力があることが確認されています。

祈りとは、こうした効果が明らかになったから祈るというものではなく、効果など考えずに、祈らずにはいられなくなって祈るという場合も多くあり、祈ること自体が救いになっているところも、祈りの効果として挙げられるでしょう。

祈りの力を支えるスピリチュアル的なものとは

病人に対する祈りの実験は、祈りにはスピリチュアル的な力があることの証明のひとつにはなりますが、神様との関係のない祈りであるならば、それは祈りを自己実現のひとつの方法として扱うことになるのかもしれません。

また、祈りが自分の力を超えた何かに対するものである必要がなければ、効果など考えずに祈りを奉げる私たちは、単なる「おまじない」をしていることになってしまいます。

祈りが神様と呼ばれるものに対するものである必要が何かあるはずです。

なぜ祈りには神様が必要なのか

祈りにはなぜ神様が必要なのか?

神様とは、人間的に考えれば、尊崇し、威儀を正さずにはいられない存在であり、自分よりも上(かみ)におられる方と考えてもよいかもしれません。

祈りの先に神様がいなければ、欲望を満たすだけの望みであっても平気でお願いできますが、祈りの先に神様がいると思えば、祈りの内容は当然変わってくるはずです。

これは、実社会においても、立場の上の人や、尊敬している人に対してお願い事をする場合には、威儀を正してお願いするだけでなく、内容においても、自分の欲を満たすだけのお願いなど出来ないはずであると考えれば、よく分かるのではないでしょうか。

また、目上の人に対してのお願いだからというだけでなく、祈りの内容が大切になるのは、祈りというものも法則のもとに成り立っていて、自分の出している波長と同じ波長の世界としか繋がらないからです。

欲望のままに祈りをしても、欲望の渦巻く世界にしかつながりません。

欲望の渦巻く世界につながるだけでなく、さらに祈り続ければ欲望の虜になってしまいます。

それを良しとするならば仕方ありませんが、神様だけでなく、他の人に見られても恥ずかしくない祈りをすることが、自分を守ることになるのです。

「お天道様が見ている」と昔からいわれていますが、誰も見ていないと思えば、つい怠け心や欲が出てしまうのが私たち弱い人間の姿であり、見られているという意識が、社会生活の中で自分の行いを正す力になっているという、ありがたい面もあるのです。

祈りの力・効果を高めるには

祈りの力、効果を高めるには、ずばり、神様に気に入ってもらうことが一番になるでしょう。

実社会であっても、相手に気に入ってもらえれば、何かと助けてくれるものです。

神様が応援したくなるような人であり、祈りの内容が応援したくなるようなものであるというところが前提になるでしょう。

しかし、祈りの内容は素晴らしくても、それが自分の欲を満たすためだけのものであれば、応援する気にはなりません。

そういう人は、普段の行動を見ていれば、神様でなくても、なんとなくわかるものです。

不平不満ばかり言っていたり、威張ってばかりでいる人であるなら、祈りの内容が素晴らしいとしても、何か裏があるように感じられるはずです。

こうした祈りは、人を自分のために利用しようとするものであり、相手に気に入られることはありません。

ですから、祈りの力、効果を高めるためには、

  • 祈りの内容にふさわしい人になる
  • 心を清らかにする

という2点が大切になります。

祈りの内容にふさわしい人になる

祈りにおいては、聖書のなかに、「神の御心に適うことを私たちが願うなら、神は聞き入れてくださる」という言葉がありますが、いくら願いの内容がよくても、祈りの内容にふさわしくない人であれば、神の御心には適わないでしょう。

例えば、医者になって多くの人を救いたいと願い、医学部合格を祈っているとしても、勉強する気のない人の願いなど、適えたくても叶えようがありません。

祈りの内容にふさわしい人であるには、しっかりと勉強していることが前提です。

それに加えて祈ることでさらに応援をもらうことができるのです。

この応援をもらえるところに祈りの力があり、祈りの力を効果あるものにするために、心を清らかにする大切さがあるのです。

心を清らかにする  

心を清らかにする大切さは、心の在り方が祈りに反映されるからです。

祈りの内容は、自分の幸せを願うものであるとしても、それが人を害するものではない必要があります。

さらに出来る限り自分の幸せが他の人の幸せにつながるような祈りでありたいものです。

それは、祈りは自分ひとりのものではなく、集合想念に影響を与えるものだからです。

多くの人が、自分だけでなく他の人の幸せを祈っているならば、その社会は天国的なものになるでしょう。

しかし、多くの人が、自分の欲望を満たすだけの祈りをしているとしたらどうでしょう。

あまり住みたくない社会になるのではないでしょうか。

個人の祈りの内容が集合想念に影響を与えると、それが社会全体の雰囲気となり、今度は逆に各人もその影響を受けるようになってしまいます。

ですから、自分の我欲に囚われない清らかな心で祈ることが大切になるのです。

祈りにおける応援は、環境の影響は受けるとしても、心の在り方に応じた気づき、ひらめきを受けとるようになります。

これが、原因と結果の法則であり、引き寄せの法則でもあり、心を清らかにする大切さがここにあるのです。

人の幸せを祈る効果

祈りの力のスピリチュアルパワーは人の幸せを祈る時に最大のものになります。

祈りの力のスピリチュアルパワーが、望みを叶える力を強めるだけであるならば、それは念力という力になってしまいます。

念力にもスピリチュアルパワーが宿っているでしょうが、祈りのような美しさはなく、感じられる幸福感も違ったものになるでしょう。

純粋に人の幸せを願う祈りは、神の御心に適うものとして引き寄せの力を妨げるものがない分、静かな力であっても、スピリチュアルパワーは高まります。

また、このような純粋な祈りは喜びです。

純粋な祈りが喜びであることは、欲望に満ちた祈りを奉げている姿を想像すれば分かるのではないでしょうか。

欲望に満ちた祈りは苦しみと共にある姿であり、私たちは、長らく欲を満たすための祈りを続けてきたために、純粋に祈れることの喜びを忘れてしまったのかもしれません。

純粋な想いで祈っている時、私たちは愛と共にあるのです。

愛と共にあるので、穏やかな気持ちでいられ、なんとも言えない幸福感を感じることができるのです。

世界の三大幸福論の1つの著者で、クリスチャンでもあるヒルティは、

幸福とは「神のそば近くにあること」と述べていますが、神が愛であるならば、純粋な祈りを奉げているとき、私たちは、神のそば近くにあるといってもよいでしょう。

信仰を持っていないので分からないと言われる人もいるかもしれませんが、何らかの力によって生かされていると感じられた時の喜びを想像すれば、なんとなく分かるのではないでしょうか。

まとめ

祈りとはとてもスピリチュアル的なものですが、祈りも原因と結果の法則のもとにあるのは間違いありません。

祈りの中に込められている想いに応じた結果が引き寄せられてくるわけなので、祈りの内容が多くの人の幸せに繋がるものであるほどに大きな幸せとなって返ってきてくれます。

こうしてみると、自分さえよければという祈りなど、とても小さなものでつまらないものに感じられてくるのではないでしょうか。

人の幸せを祈ることに喜びを感じられる人が1人でも増えれば幸いです。

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